宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

劇団サンプル「女王の器」&アフタートーク松井周×武富健治



 『ユリイカ武富健治特集で劇作家・演出家としての観点から「鈴木先生」を論じていた松井周さんの劇団サンプルの公演「女王の器」が新百合ヶ丘川崎市アートセンターであり、公演後に松井さんと武富さんのトークがあるというので、行ってまいりました。


http://www.samplenet.org/top.html
http://www.samplenet.org/yotei.htm


 演劇、特に岸田戯曲賞取るような人たちのやってる小劇場演劇にはずっと関心があったんですが、漫画も読みたい映画も見たい音楽も聞きたいライブも行きたいという貧乏学生時代はお金が足りず、知り合いのやってる学生演劇を見に行く程度で、その後は結局忙しくなる一方で時間がなく、今日に至っていたのですが、「鈴木先生」を理解する上で、やはり現代演劇の知識は必須だよなーと思っていたところにこの機会だったので、これは逃してはいかんなと。
 松井さんの書いたものは『ユリイカ』の論考しか読んだことがなく、おやりになってるお仕事についても劇団についても何の予備知識もないまま行ったんですが、思った以上にがっつり前衛で変態なお芝居でした。トークの時に武富さんも言ってたんですが、自分が見てた学生演劇はこういうのをやろうとして極めて未熟なまま提出、みたいなものだったんだなと思いました。
 いや、実際は、そこからさらに20年近く経ってるので、その当時の現代演劇よりさらに進化・深化してるんだと思うんですが、その辺は、他を全然知らないので適当なことを言ってしまってます。ごめんなさい。


 お話はざっくり言うと、三つのお話が並行して、というか少しずつ交代しながら進み、しかも完全に別々に進むのではなく、相互に浸食し合っているような形。三つのお話はそれぞれ、界面活性好きの変態刑事とその不倫相手の女の話、その女が人形を使って作っていると思しき「女王」とその周辺の人間の話、「女王」の石像を作っている男とその家族の話、ですが、ま、この情報だけで、実際どんなお芝居か正確に想像するのはほぼ不可能かと(笑)。
 舞台装置が面白くて、舞台上に、伸縮性のある白い布を凹凸つけて張ったところが物語が主に展開する「舞台」になってるんですが、その布の周りに、客席から丸見えの形で、照明機材や、マイク、テーブル、いすなどが置いてあり、その場面では「舞台」に立っていない役者さんもその布の張っていないエリアに普通にい続け、時には照明を操作し、時にはメイクを直し、ときには布の下に潜り込んで布を動かしたりするんですね。あとの方になるとそのエリアでも演技が展開するようになります。
 要は、通常は舞台の上が丸ごとその演劇の虚構世界で、観客席がその外、なんですけど、その間に、どっちつかずの緩衝地帯を作って、虚構の内外の境界線をあいまいにしてしまってるわけです。もちろん、寺山修司の映画なんかを見てれば、もともと前衛演劇ってのはいろんな仕方でその境界線を壊したり攪乱しようとしてきたんだなってのは分かるので、そういう意味で、「がっつり前衛」と書いたわけです。


 武富さんとのトークも、30分弱でしたが、面白かったです。武富さんの演劇経験の話や、「鈴木先生」の演劇性などについて、基本的に松井さんが聞いて武富さんが答える形で進み、観客席からの質問も受け付け、という感じでした。
 松井さんのお話で面白かったのは、足子先生が途中でクリーチャー化するくだりなど、役者が、ただ与えられた役柄に一体化するように正確に演じるだけではなく、いつかそこから逸脱してしまう瞬間があるんだけれど、その逸脱をもコントロールして取り込もうとするところが演劇っぽい、という指摘でした(と僕は理解しましたが、ちょっと正確に聞き取れてないかも)。
 また、武富さんのお話では、一コマ一コマ、コマの大きさや形が変わって行く漫画は、フレームの形・大きさが基本的に一定の映画やテレビより、演劇に近い気がする、という指摘が面白かったです。
 演劇の場合、観客席のどこに座るかで、舞台の見え方はかなり変わりますし、舞台上に複数役者さんがいる場合、多くの観客は今セリフを言っている役者さんに注目していても、別の観客は違う役者さんに注目していたり、さらに別の観客は全体を視野に入れて眺めていたり、と、違うフレームで舞台を切り取っているし、そのフレームも時々刻々と変化していきます。
 今日の公演では、まさにそうした舞台芸術の特徴が極端に強調されていて、「舞台」の境界線自体も刻一刻変化し、布の上でもその外でも同時並行的にいろんなことが起こっているため、おそらく観客一人一人が、どこまでを視野に入れてどこに焦点を当ててみているかが違い、その視野と焦点も刻々と変化していたと思います。それって要は、コマの形が変わるように、世界を切り取るフレームが変わり続けてるってことですよね。
 もちろん、漫画の場合、そのフレームの変容を作者がコントロールしていて、演劇の場合観客にゆだねられているっていう大きな違いはあるわけですが、武富さんの、映画より演劇に近い部分があるっていう言い方はよく分かります。


 この世界を切り取るフレームが変わることへの意識、っていうのは、松井さん武富さんに共通している要素なのかなと思いました。「鈴木先生」はご存じのように、こういうふうに世界観が設定されている話なのかな…と思いかけると、いきなりそれが更新されてしまう、それこそ足子先生がいきなりクリーチャー化するとか、緻密なミステリー調の短編もあれば、長ゼリフ連発の長編会話劇もあったり、鈴木先生のシリアスとコミカルの振り幅も大きいし、生き霊実在説になっちゃったりとか、物語世界を成り立たせている約束事自体が途中で変わって行ってしまうのが一つの大きな面白さになっています。
 今日の「女王の器」もやはり、こういう感じで進むのかなと思っていたら、そのなんとなく想定していたルールが変更されてしまう局面が何度かあり、そこが重要だと感じました。武富さんも、そうした作り方を、より高度な面白さへの「王道」だと言っていて、松井さんも同意されてました。
 そうした世界の態様が変わっていくという意味での「変態」性と、性的な「変態」性が、密接に結びついているところも、共通してますよね。作ってる本人は一見至って普通の常識人なところも共通してました(笑)。


 と、そんなこんなで、こんなに長文書くつもりなかったんですが、思わずだらだら書いてしまいました。それくらい刺激されたということで、行ってよかったです。
 終わった後、会場のロビーで松井さんを紹介していただけたので、武富さんと三人で上に書いたような話を少しさせてもらえて楽しかったです。さらにその後、武富さんと二人でゆっくり夕食をご一緒して色々お話できたのも楽しかった。久しぶりに刺激的な充電ができた一日でした。松井さん武富さんありがとうございましたー!


自慢の息子

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