宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

2月8日、熊本、「荒木経惟 熊本ララバイ」展


 その2日後、今度はゼミ生数名を連れて、ミヤモゼミおなじみのCAMKへ。アラーキーが、地元熊本の母子を被写体にヌードを撮る、「母子像」シリーズをクライマックスとしつつ、アラーキーの仕事歴の概観もできる構成の展覧会になっていました。
 のっけに「センチメンタルな旅・冬の旅」を配し、中盤に「日記」や「食事」と題された、「私写真」系の圧倒的な質量のシリーズ、さらに初期の代表作「さっちん」も見せつつ、今回の展覧会のために撮り下ろされた「色淫花」が来て、最後にドーンと広い空間で「母子像」と、ほんとにおなかいっぱいの充実ぶりで、いろんな感情を喚起された最後に「母子像」が来るので、どうしてもちょっとうるっと来てしまうのでした。
 この「母子像」については、撮影現場の様子も含めて学芸員の坂本顕子さんがすばらしいレポートを書かれていますので、ぜひお読みになってください。


http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/curator/as_0810.html


 一見すると、アラーキーも歳とって、母親が子育てするのっていいね、みたいな写真を撮るように、みたいなものかと思いますが、もちろんそんなことはありません。ポスターに使われ、上の坂本さんの記事でも紹介されている写真だけでなく、展示された39点すべてが見事にそうなっているのですが、アラーキーは子供がいい顔をし、子供の目線がカメラに来ることと同等、あるいはそれ以上に、母親の女性がいい顔でしっかりカメラ目線になることを求めています。
 古今東西の絵画における母子像の多くが、「こっち」を向かずに子供に慈しみのまなざしを向ける母親を描いていることとは対照的に、母親も子供と対等に自立した被写体としてカメラに視線を向けていることは、彼女たちが「母」という役割に押し込められた存在ではなく、アラーキーに強い視線を向けてきたあまたの女性たちと同じ一人の「女性」であることを示す上で、非常に重要なわけです。
 実際、会場で流されていた撮影風景のドキュメントビデオでは、泣いたり硬直したりなかなかカメラ目線にならなかったりする子供の方をついつい見てしまう「母」たちに向かって、いっしょに子供に声をかけあやしつつも、「おかあさんも目線ちょうだい!」「おっ、いいねえ」「素晴らしい!」と声をかけていくアラーキーの様子が捉えられていました。
 学生たちもすっかり感動した様子で、泣き出しちゃう子までいたりして、金がないからという彼らにつきあって片道3時間半かけて小倉から熊本までまったく特急使わずに出かけた甲斐がありました。僕個人にとっても「母子像」のシリーズは、上に書いたような、いかにもジェンダー論な話だけでなく、自分自身のことに引きつけて色々と考えずにはいられないものがありました。
 お昼ごはんも、夕食のラーメンもおいしく、移動中のおしゃべりも楽しく、フォーラム2日後のおっさんには多少体力的にきつかったものの、非常に充実した1日でありました。