宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

なぜ名前を、顔を、忘れるのか−「君の名は。」と「この世界の片隅に」(2)

【このエントリは、「君の名は。」を中心に論じた(1)( http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20170724/1500893086 )の続きになります】


7.この世界の中心に 
 「君の名は。」と「この世界の片隅に」を交互に何度か観るうち、「この世界の片隅に」の不思議な安心感が気になり始めてしまった。
 「君の名は。」は何度見ても、この二人は最終的に再会しそびれるのではないか、お互いを見つけそびれるのではないかという不安感が消えないのに、そればかりかこのエッセイの前半で述べたように、再会してもなお二人の間には寂しさを運んでくる風が通り過ぎると歌われているというのに、「この世界の片隅に」は、見れば見るほど、ああ、何があってもすずさんは必ず見つけてもらえる人なのだ、という安心感が強くなってきてしまったのだ。
 その安心感は、もちろん私にとっては、この作品を手放しで絶賛してはいけないのではないかという違和感になっていった。


 アニメ版の冒頭のシーンは、漫画版とは違って、すずの次の言葉とともに始まる。

 
 「うちはよう ぼうっとした子じゃあ 言われとって」


 観客が、のんが演じるすずの声を最初に聞くことになるこの言葉は、物語の中ですずが誰かに向かって口に出した言葉ではない。すずによる一人称のナレーションとともに、このアニメは始まったことになる。この語りの言葉の続きは、しばらくお預けになり、オープニングテーマが流れる中、緻密に再現された中島本町の街並みを見せた後、「ばけもん」とのやり取りを妹のすみに絵に描いて見せながら語る、このシーンの最後に現れる。

 
 「あの日のこともきっと 昼間見た夢じゃったんに違いない」


 漫画版ではこれに相当する語りは、最初のエピソード「冬の記憶」の最終ページにまとまって出てくる。


 「わたしは よく人から ぼうっと していると 言われる ので」
 「あの日の事も きっと 昼間の夢だと 思うのだ」


 一見して分かるように、漫画版ではすずによるナレーションは、語り手としての位置にふさわしく、物語の内部で発声されていないことを強調するように、標準語になっている。この時すずはまだ8歳、標準語の語りは、この物語がどこかの時点からすずによって振り返られる形で語られているか、あるいはまた、すずという8歳の少女に自分を客観視できる相当成熟した内面が備わっているかの、いずれかであることを印象付ける。
 すずの一人称でのナレーションは、次の「大潮の頃」でも現れるが、「波のうさぎ」では姿を消し、連載となってからもしばらく見られなくなる。ナレーションだけでなく、すずが声に出さずに思っていることが読者に言葉として示されることもほとんどない。
 これが一変するのは晴美を失ってからだ。すずが声に出さずに思っていること、自分の置かれた状況を語る言葉が、ないまぜになって、吹き出しに入らず直接画面に置かれる(日本の漫画文法では声に出されていない言葉であることを示す)形式で読者の前に現れてくる。この時の言葉は、広島弁と標準語が混じり合っていて、すずが自分を客観視しようとしてもしきれない、心情の揺れを表わしている。
 初めは冷静なナレーションとして始まった一人称で標準語の内語が、主人公の心の動揺に伴って心情を直接表わす方言の内語の方へと揺れて行く表現は、「夕凪の街」でも用いられていた。アニメ版が、冒頭からすずの語りを、ナレーションというより内語に近いものとして、方言で表現することを選び、漫画版と違って物語の節目ごとに方言のイントネーションを保ったままの、ナレーションとも内語ともとれるすずの声を(観客にだけ聞こえるように)響かせているのは、当然それなりの理由があってのことだったはずだ。
 大まかに言ってこの物語は、「ぼうっとした子」としてのすずが、リンと周作の関係を知り(このくだりはアニメ版では省略されている)、哲と過ごした夜を経て、晴美を失い右手を失うという一連の重い出来事を経験し、ぼうっとしたままではいられなくなる中で、呉に残って自分なりの「たたかい」を生きる覚悟をした(「なんでも使うて暮らし続けるんがうちらのたたかいですけえ」「そんとな暴力に屈するもんかね」)その矢先、すぐに敗戦を迎え、自分が引き受けようとした戦争の大義の欺瞞性を知り(「海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんでできとるんじゃなあ、うちは。じゃけえ、暴力にも屈せんとならんのかね」)…、という精神的な成長を遂げていく物語になっている。
 片渕須直監督はこれについて、「曖昧な主体を持つ人の存在の焦点が、だんだん結ばれていく作品」だと言っている。冒頭のすずの言葉を標準語から方言に変えたのは、おそらく、まだこの時点では、すずは曖昧な主体を持つぼうっとした子であると強調したかったということだろう。初めから、すでにはっきりとした主体性のもとに自分を対象化する言葉を持っているすずの声とともに始まってしまえば、この物語の中でやがて、すずがそのような存在へと成長していくことが、分かってしまう。ありていに言えば、ネタバレしてしまう。
 いうまでもなくこの選択は演出として大正解であり、観客はのんの巧みな広島弁の演技を最初から印象付けられ、ぼうっとした子としてのすずをほとんど無条件にかわいいと思い、その人生を応援したくなる。だがその結果、この物語が、あまりにもすずにとって都合のいい奇跡の連続で成り立っていることが、批判的に見られにくくなっているのではないか。
 

 「昼間見た夢」だったに違いないと言われる「あの日のこと」、すなわち周作とすずが子供のときに「ばけもん」の籠の中で出会っていたことは、現実だった。同じく夢とも現実ともつかなかった「ざしきわらし」との出会いも現実で、そのざしきわらしがリンだったこと、そのリンに呉で迷子になった時に出会うこと、そのリンが周作と関係を結んでいたこと、それがすずの知る所となること。戦後の広島で、被爆によってすずと同じように右手を失った母親と死に別れた、晴美と似た年恰好の少女と出会うこと。
 普通に考えれば、この連鎖は、「君の名は。」のラストで二人が出会う奇跡と同等かそれ以上の、ほとんど天文学的な確率でしかありえない「奇跡」のはずである。斎藤環はこの作品について次のように言っているけれど、この作品の中で起きる重要な出来事、重要な出会いの「確率」の低さ、それらが見事に連鎖していく確率の更なる低さは、結局のところすずの異様な「運」の良さを示しているように思える。


 さらに奇妙なことに、本作には人の出逢いを表す言葉として「運命」という言葉が出てこない。「出会えた奇跡」はおろか、偶然を必然に読み替える一切の言い回しが出てこない。人はただ、自分が生き延びられる確率と、相手が生き延びる確率、その総和としての出逢いの確率を計算しながら生きるかのようだ。
斎藤環「すべては『すずさんの存在』に奉仕する」『美術手帖』2017年2月号)


 斎藤の評論のタイトルは、この作品の作り手たちがすずの存在感を確たるものにするために積み重ねた入念な取材などの準備と表現の工夫、そしてこの作品に触れた観客たちのことを指しているが、私には、ありえないくらい確率の低いはずの出来事が連鎖して、すずの存在が失われることのないように展開していくこの物語の運命論的な安心感を言い表すもののようにも思えてくる。
 斎藤もまた、この評論の末尾近くで「本作を見終えた後の奇妙な安堵感は『ここが居場所』と私に告げる」と述べている。すずの居場所が失われることは、どういうわけか絶対にないと感じさせてしまう「安堵感」。この物語におけるすずは、「この世界の片隅」どころか、「この世界の中心」にいて、「この世界」のすべてを自分の存在に奉仕させているかのようだ。


8.すずの受動性
 すずにとって決定的に重要な奇跡が連鎖していくことに対する違和感は、それらの奇跡のほとんどがすずの主体的な決断や努力によるものではないことから来る。ばけもんの籠の中で周作と出会うのも、天井裏からリンが現れるのも、リンと周作が遊郭で出会っているのも、迷子になってリンと出会うのも、広島で自分に似た母を亡くした晴美に似た少女に出会うのも、すずの意志とは関係なく起きた出来事だ。
 三葉と瀧が、糸守が壊滅し、三葉が死に、当然二人が再会できることなどないままに終わる無数の可能性に逆らって、懸命に行動していたのとは対照的に、すずは自らの周りで起こる奇跡のために何ら主体的な行動を起こしていないように見える。「この世界の片隅に」に対するあまり多くはない批判のほとんどが、すずという主人公の受動性に向けられているように見えるのは、故のないことではないと思える。
 この物語は、漫画版もアニメ版も、すずの内語だけが読者・観客に聞こえる単一固定焦点化(物語の最初から最後まで、単一の登場人物の内面・心理だけを読者に提示する視点からの語り)の形式を取っている。すずがいないところで起きた出来事を語る場面は原則として存在せず、例えば義姉の径子の人生は周作と義母によるすずに対する語りとして提示される。語り手の視点は、徹底してすずに寄り添い、受け手に対して、すずへの強い感情移入を促し続ける。この構造に素直に乗せられている限り、すずの受動性への批判的視点は得られにくくなるだろう。
 すずという主人公の受動性。受動的であるにもかかわらず、物語世界の中心に位置し続け、受け手の感情移入を特権的に享受してしまうこと。自らの積極的な意志と行動によって起きたのではない奇跡の連鎖によって、その人生がドラマチックに彩られていくこと。これが、私が2,3度目の鑑賞の際に覚え始めた違和感の原因であり、「この世界の片隅に」を肯定的に語ろうとするものが乗りこえるべき最初の批判的な論点だと言える。
 次々降りかかる不幸の連続に翻弄されながら、事態を自ら積極的に打開する力もなく、ただただけなげに耐え続けていると、最終的に生き別れていたお父さまやお母さまと再会するなどして大人の力で救われてハッピーエンド、という昭和30年代の少女漫画の「かなしい」お話に似た構造、そしてそのけなげに耐え続ける少女を読者が応援し続けるという享受のあり方に似た構造を、「この世界の片隅に」が持っていることは、もう少し知られていいように思える。
 だが、この作品の中に、すずの受動性に対する批判的な視点が内在していないかと言えば、そうではない。
 すずの人生にとって決定的に重要、かつ、すずに決定権が委ねられていた(「いやならことわりゃええんよ」)はずの結婚においても、「いやかどうかもわからん」と言いながら受け入れてしまうようなすずの受動性に対して、昭和20年8月6日の原爆投下の直前に径子が、はっきりと批判的な発言をしている。夫に先立たれ、離縁によって息子と離れ、娘を失った自分の人生を、それでも「自分で選んだ人生」だから「ふしあわせ」ではないと言い、それに対してすずの人生は「さぞやつまらん人生じゃろ思うわ」と言っている。
 いうまでもなくこの径子の発言は、すずの受動性を否定して終わるわけではない。晴美の死の直後にはすずを「人殺し」となじった径子が、あんたの居場所はここでもいいと言い、「くだらん気兼ねはなしに、自分で決め」と促すのである。径子がここで、すずのこれまでの、受動的で、他人から見れば「つまらん」人生に、それでも価値があることを、相当の重みを持って認めていることは確かだろう。その上でさらに、すずに、改めて、呉で生きることを選ぶのか、広島に帰ることを選ぶのか、主体的に選択し直す機会を与えているのである。
 すずの生き方に対して最も批判的なスタンスだった径子が、物語の終盤でこのような発言をすることは、すずの受動性に対する批判に対して張られた予防線とも取れる。だがなぜ、すずの居場所はここでもいいと、径子は言えるのだろうか。
 さしあたり一つ言えるのは、重要な場面で「自分で選ぶ」ことのない人生であっても、主体的に積極的に自分の置かれた状況を打開しようと行動を起こすようなことはない人生であっても、すずが人生を大切にしていないわけではないということだ。この作品の随所で丹念に描き出される、家事などの日々の生活、それも戦時下の日常を見ることを通じて、観客はすずが営む「普通」の生活に十分価値があることを感じとっている。径子の発言は、その感覚を引き受けてくれている。
 すずは三葉と違って、自らの行動によって町を救おうなどという主体的な行動は起こさない。「いやかどうかもわからん」ような相手との結婚を拒否して水原を選んだり、海軍に勤める夫がありながら、行われている戦争に疑問を抱いたりすることもない。「はだしのゲン」のとうちゃんのように、非国民扱いされても信念に従った発言をしたりすることもない。当然なのだ。女学校も出ていない女性一人が主体的な行動を起こしたところでほとんど何も変わらない、変えようなどと考えつくこともできない状況に、すずは生きている。その中でせめて自分がどうにかできる生活を、生きている。
 一人の人間の主体的・積極的な行動が、そいつの人生にとって、あるいはそいつを取り巻く状況に対して、大きな意味を持つことはありうる。だから、そのような可能性に向かって懸命に行動することを肯定する物語は、特に若い人に対しては必要だ。
 だが一方で私たちは、一人の人間の主体的・積極的な行動程度では、そいつを取り巻く状況を変えることはおろか、そいつの人生にとっても何の成果ももたらさないことがありうることも、人生の中で知っていく。逆に大した努力もなしに、幸運が舞い込み、事態が好転していってしまうこともまたありうることを、知っていく。そういう人生の苦みと不思議を教える物語もまた、少なくとも大人には必要だ。
 だから、「君の名は。」が若い人のための物語として意味があるのと同じように、「この世界の片隅に」は大人のための物語として、意味があるのだと、まずは言うことができるかもしれない。だが、私たちの議論は、こんなところで終わるわけにはいかない。


9.孤児の少女
 私が「この世界の片隅に」に覚え始めた違和感はあと二つある。一つは戦後の広島ですずと周作が出会う孤児のこと、もう一つは物語の中ですずが生きる世界の風景の描き方の問題である。
 先に触れたたくさんの「奇跡」の最後が、戦後の広島で、すずと同じように右手を無くした母親と死別した孤児の少女に出会うことだ。すずの右手も母と同じように失われていることに気づいた少女はその右腕を両手でつかんで頬を寄せる。晴美と似た年恰好の少女を、周作とすずは当然のように呉へ連れて帰り、北條家の人々も当然のようにそれを受け入れる。径子は言う。「去年の晴美の服じゃこまいかねえ」。
 漫画版はこの場面で終わるのだが、アニメ版ではエンドロールでさらにその数年後、その少女が少し成長し、少女とすずと径子が、楽しそうに同じ布から仕立てた洋服を着ている様子が描かれる。
 このことは、私にとって、先に触れた奇跡の連鎖以上に、このこと単体で強い違和感を覚えさせた。この物語の中で最も重大な出来事、すずにとっても径子にとっても深刻な心の傷になった出来事だったはずの晴美の喪失が、この少女との出会いによって埋められているように見えかねないからだ。
 このエピソードは、「はだしのゲン」において家の下敷きになって焼け死んだゲンの弟(進次)に瓜二つの隆太が登場し、ゲンの家族と暮らし始めるエピソードを思い起こさせる。そしてさらに、柄谷行人が『探求?』の中で、固有名とそれが指し示すほかならぬ「この人」の単独性を論じる中の次の一節を、思い起こさせる。


 ところで、子供に死なれた親に対して、「また生めばいいじゃないか」と慰めることはできないだろう。死んだのはこの子であって、子供一般ではないからだ。しかし、子供や妻が家畜と同じ財産と思われているような社会では、それが可能であるようにみえる。たとえば、『ヨブ記』では、神の試練に対して信仰をつらぬいたヨブは、最後に妻および同数の子供(男七人と女三人)とより多くの家畜を与えられる。しかし、どうしてそれで償われたといえるだろうか。死んだあの子が取り戻されたわけではないのだ。『ヨブ記』を読んだあとに残る不条理感はそこにある。(柄谷行人『探求?』講談社学術文庫版、1994年、p.16)

 
 死んだのは晴美であって、7歳くらいの女の子一般ではない。似た年恰好の孤児を引き取ったからと言って晴美が取り戻されたわけではない。それなのに、わざわざ漫画版にはない、すずと径子と少女の楽しそうな様子をエンドロールに描き加えてしまうとはどういうことか。この少女の名前が作中では明らかにならないことも、この少女の身代わり・生まれ変わり感を強めているように思えた。何度映画館で見ても、私の周囲の観客はこのエンドロールを何やらほっとした様子で穏やかな微笑とともに眺めており、ネットを少し見た程度では、「ちょ、晴美さんのことは…?」といった反応は見つけられなかった。
 このことに私がこだわってしまうのは、アニメ版では省略されたリンとすずと周作の関係をめぐるエピソードの中で、まだこの時代の日本に、まさに「子供や妻が家畜と同じ財産と思われているような社会」としての側面が残っていることをうかがわせる発言をリンしているからだ。


 リン「ああ でも子供は居ったら居ったで支えんなるよね」
 すず「ほっ ほう!ほう!! 可愛いし!!!」
 リン「困りゃあ 売れるしね!」


 この会話の後、すずは自分がリンの「代用品」ではないかという考えにとらわれていく。人が人の「代わり」でありうると考えるのか否かは、すずにとって、この作品にとって、重い問いになっているのである。
 孤児の少女の件については、次のように考えることで、さしあたり解消できる。簡単に言えば、すずと径子の受けた傷の深さを考えれば、アニメ版のエンドロールで示されている程度の楽しい場面があったからと言って、晴美の喪失がすっかり埋め合わされているはずはないのだし、すずと径子が孤児の少女を晴美の「代わり」として受け入れているわけでもないのは、わざわざ描き出すまでもなく自明のことだということだ。
 細馬宏通による繊細で丹念な論考「アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す」の最終回( https://magazine.manba.co.jp/2017/05/25/hosoma-konosekai18/ )が、こうした考えを支えてくれる。細馬はここで、刈谷さんとすずがリヤカーを押して呉の港に着底した青葉の前を通る場面のすずの言葉について、漫画版では「記憶の器」だったすずのセリフが「笑顔のいれもん」に変えられていることについて考察している。
 確かに「記憶の器」は口語としては「唐突な硬いことば」に響くかもしれないけれど、「あらゆる表情の中から笑いだけを取りだし、笑いのイメージの連鎖によって「笑顔のいれもん」ということばを引き出している点で、アニメーション版は、原作の豊かさを取り逃しているのではないか」とした上で、細馬はこの場面でクローズアップされる6つのバケツが、「涙のいれもん」のように見えることに注目する。このイメージの提示によって、すずという「いれもん」の中には笑顔だけが入っているわけではないことが示唆されているというのである。
 片渕監督は、絵コンテでは描かれていなかったエンドロールの二つのエピソード、すなわち孤児の少女とすずと径子のくだりと、本編で語られなかったリンとすずの物語について、次のように言っている。


 ・・・全編を作って、ダビング作業で音をつけてみたら、予想以上にすずさんの心の傷が深く残ったままであるように感じられ、出来るだけ明るい心境に至れるようにしたいと思いました。・・・さらにその後に、どこか別の世界に去っていった右手とリンさんの物語が続きます。すずさんは、明るい日々を迎えつつ、心の奥底には失ったものを抱え続けるのです。(『「この世界の片隅に」劇場アニメ絵コンテ集』双葉社、2016年、p.694)


 「出来るだけ明るい心境に至れるようにしたい」と作り手に思わせるほど深い傷がすずには残っており、「失ったもの」は「抱え続け」られている。晴美の喪失が広島で出会う孤児の少女によって埋め合わせられているのではないか、という私の違和感は、こうしてとりあえず解消できた。だが、晴美とこの少女、リンとすずの問題には、後でまた触れることになるだろう。


10.In this corner of the world?
 この作品の英語タイトルは「In this corner of the world」だ。これを見ておや?と思った。「この」は「片隅corner」ではなく「世界world」にかかっているのではないかと。英語タイトルは、この/世界の片隅に、になっているけれど、私は、この世界/の片隅に、だと思い込んでいたのだ。英語としては変な表現なのかもしれないが、「In the corner of this world」の方が意味としては正確なのではないかと。
 漫画版の「おもな参考文献」には挙げられていないけれど、このタイトルが山代巴編『この世界の片隅で』(岩波書店、1965年)から来ていることは間違いないだろう。「夕凪の街」の舞台ともなった相生通りをはじめとする、広島のいくつかの地域を舞台にしたルポルタージュ集(という表現がふさわしいのか迷うが)である。ここで描かれているのは、それぞれ固有の地域性を帯びた、まさに「世界の中心」と対比される意味での「世界の片隅」で生きる人々である。だからこの本の英語タイトルとしてなら、In this corner of the worldで何も問題はないはずだ。
 だが漫画版の巻頭辞として「この世界のあちこちの私へ」と記されているこの作品については、「この世界」でいったん切って理解するのが自然な読みのように思える。
 「世界」という言葉を辞書で引いてみる。


(1)地球上のすべての国家・すべての地域。全人類社会。 「 −の平和」 「 −最高の山」
(2)物体や生物など実在する一切のものを含んだ無限の空間。宇宙。哲学では社会的精神的事象をも含める。また、思考・認識する自我に対する客観的世界をさすことも多い。 「可能−」 「 −の創造」
(3)自分を中心とした生活の場。自分の知識・見聞の範囲。生活圏。世の中。 「新しい−が開ける」 「ピカソの−」 「あなたと私とでは−が違いすぎる」 「君は−が狭いよ」
(4)同一の種類のものの集まり、またその社会。 「動物の−」 「勝負の−は厳しい」
(以下略)
(『大辞泉 第三版』)


 同様に「world」を英和辞典で引いてみる。


1 (通例the〜)世界;(特定の地域・時代の)世界
a citizen of the world
世界市民, 国際人
the New [the Old] World
新[旧]世界
the civilized world
文明世界
all over the world [=all the world over/the (whole) world over/throughout the world]
世界じゅう(いたる所で)
be [live] in a world of one's own
自分だけの世界に閉じ込もっている
They lived in different worlds.
互いに異なる世界に住んでいた.
(以下略)
(『プログレッシブ英和中辞典(第4版)』)


 日本語の(1)(2)の意味でなら、「この」という限定は普通要らない。その意味での「世界」は一つしかないから定冠詞の「the」が付くのだと英語の授業で習った覚えがある。
 英語の1の意味も(通例the〜)とあるが、用例に「be [live] in a world of one's own 自分だけの世界に閉じ込もっている」と「They lived in different worlds. 互いに異なる世界に住んでいた.」という、「the world」でないものが挙がっているのが面白い。日本語でも??の意味でなら、複数形がありうるから、複数の世界の中の「この」世界という言い方もありうる。
 「この世界」でない他の世界がありうるという感覚のもとに、他の世界とは異なるあり方をした特定の世界として「この」世界を「この世界」と呼ぶこと。漫画版にもアニメ版にも、このような「世界」に対する感覚が共通しているように思える。
 漫画版から「世界」という言葉の含まれているセリフを抜き出してみる。見落としがあるかもしれないが、ほぼこれですべてのはずである。
 

1)すずとリンのやり取りの中でのリンのセリフ
「誰でも何かが足らんくらいで この世界から居場所はそうそう 無うなりゃせんよ」


2)すずと哲のやり取りの中での哲のセリフ
「この世界で普通でまともでおってくれ」


3)右手と晴美を失った後、自分が「歪んどる」と自覚した後のすずの内語
「まるで左手で描いた世界のように」


4)刈谷さんとリヤカーを押しながら青葉と哲の前を通るときのすずのセリフ
「うちはその記憶の器として この世界に在り続ける しかないんですよね」


5)すずの内語
「わたしのこの世界で出会ったすべては 私の笑うまなじりに 涙する鼻の奥に 寄せる眉間に ふり仰ぐ頸に 宿っている」


6)相生橋の上でのすずと周作のやり取りの中でのすずのセリフ
「この世界の 片隅に うちを見つけて くれて ありがとう 周作さん」


7)右手からの「しあわせの手紙」
「貴方などこの世界の ほんの切れっ端に すぎないのだから」
「変はりゆくこの世界の あちこちに宿る 切れぎれの わたしの愛」


 3)以外はすべて「この世界」という言い方になっている。3)も「左手で描いた世界」という限定の付いた言い方で、当然「右手で描いた世界」との対比の中で言われている。1)から7)まで、「the world」の意味での「世界」としては使われていないと思える。
 アニメ版では、3)と4)のセリフから「世界」という言葉がなくなっていて、5)についてはこの一節を含む一連の内語が全てなくなっている。3)は「左手で描いた絵みたいに」に変更、4)は「笑顔のいれもんなんです」に変更されている。その結果、コトリンゴの「みぎてのうた」に含まれることになった7)を除くと、すずとリン、すずと哲、すずと周作の、やり取りの中に一度ずつ「この世界」という言葉が出て来ることになっている。すずが関わる3人の重要登場人物とのやり取りが、全体の中で際立つ形だ。
 いずれにしても単に「世界」と言ってもいいはずの場面でも徹底して「この」という限定がついていて、「この世界」が他にも「世界」がありうることを前提にして、ほかならぬ「この世界」を指し示す意識が、この作品に行き渡っていることは確かに思える。ならばこの作品における「この世界」とはどのような世界なのか。


11.二つの世界?二つの風景?
 「この世界の片隅に」における「この世界」が、「地球上のすべての国家・すべての地域。全人類社会」や「物体や生物など実在する一切のものを含んだ無限の空間。宇宙」、「思考・認識する自我に対する客観的世界」としてのthe worldではなく、ある特定の世界だとすれば、それはすずが生きている世界、すずが見た世界、にほかならないだろう。
 すでに見てきたように、この物語は、すずに寄り添って、すずを中心として展開しており、受け手は原則としてすずの生きている世界、すずの見た世界しか、知ることができない。だがそれだけなら、「この世界」とは「世界」の中のすずが知りえた特定の範囲という意味しか持たない。私たちは、もっと強い独自性が「この世界」にはあることを知っている。
 すずは、「君の名は。」の瀧と同じように、絵を描く人である。「鬼イチャン」のような漫画から、風景のスケッチや、日常のこまごました物事のメモ的なものまで、生活の様々な場面で、様々な絵を、多くはエンピツ一本でだが、描いている。
 すずが描いている絵は、物語の中で、すずが描いた絵をカメラで撮影したように提示されるだけではない。海を描きたくなかった哲の代わりに波のうさぎがはねる海を描いたときには、その絵がそれまでの背景と置き換えられ、絵の中にすずと哲が入り込んだようになる。漫画版では見開き2ページを使って、アニメ版の中でも同様に、非常に印象的な場面として提示される。
 この場面で起こっていることは何か。すずの見た世界、すずは今こういうふうに世界を見ているというその見え方を、受け手も共有しているということだ。特定の登場人物の主観のフィルターを通して見た世界を受け手に提示することで、その特定の登場人物の感覚・感情・内面・心理を、受け手に(言葉によらずに)理解させる表現技法は、漫画の世界ではよく用いられるものだ。その人物自体がその画面の中に描きこまれていてもかまわない。その場合は、その人物の視点がその人物の身体から外に出ていると捉えればよい。これについては、泉信行が詳細に論じている(泉信行漫画をめくる冒険 上巻 視点』ピアノファイア・パブリケーション、2008年)。
 だから、この場面でも、画面の中にすず自身が入り込んでいるが、すず自身が、自分のいる世界を、自分の身体の外に出た視点で、そのように捉えているのだと考えればよい。
 漫画版では、明らかにすずの主観を通して見られた世界であることが分かるコマが、物語の重要な場面で何度も出てくる。分かりやすいのは、初めて呉に来たときや、広島に里帰りした際に(のちに原爆ドームとなる)産業奨励館のあるあたりをスケッチするときなど、すずが初めて触れる風景、あるいは、改めて目に焼き付けようとしている風景は、輪郭線を描かず、陰影を示す斜線の集まりで物の形を表すようにして描かれていることだ。
 つまりさしあたり次のように言うことができる。この作品で、キャラクターの背景として描かれている空間は、それがすずの見た、すずの主観を通した世界として表現されている場合と、誰が見てもこう見える客観的な世界として表現されている場合がある、と。物語は、その両方を行き来しながら、展開されているのだ、と。
 だが、本当にそのように切り分けてよいのだろうか。すずが晴美と右手を失い、自分が「歪んどる」ことを自覚した「第35回 20年7月」以降、背景は「まるで左手で描いた世界のように」あちこち歪んだ、稚拙な絵に変わる。周知のようにこうの史代はこれ以降の回の背景を実際に左手で描いたという。この時私たちは気づく。これまで、誰が見てもこう見える客観的な世界として表現されていると私たちが受け止めていた背景は、すずの右手で描いた世界だったのではないかと。
 この作品に限らず、こうの史代は背景を描く時にもペン入れに定規を使わないので、輪郭が直線で構成されている物体も、微妙にぶれながらひかれたフリーハンドの線で表現される。「写真のようにリアルな」背景画でないことが、こうの作品の中の風景に、いつもキャラクターの感情がにじみ出してくるような表現を、自然に感じさせている。
 これは、キャラクターの主観のフィルターを通った風景描写と、客観的な風景描写の落差が小さくなるということでもあるので、特定の場面についてだけここはキャラクターの主観が投影されている、ということを強調したいような演出には不向きだともと思われるが、逆に、そもそも客観的な「世界(the world)」の客観的な認識と描写などありえないのだ、程度問題としてグラデーション状に必ずキャラクターの主観は投影されているのだ、という世界観の表現には最適である。
 「この世界の片隅に」が提示する「この世界」とは、単に、「世界」の内のすずが知りえた範囲ということではなく、徹頭徹尾すずの目と手を通した世界だったのではないかと考えてみること。私たちはようやく、私がアニメ版に感じた違和感の三つ目について、論じ始められるようだ。


12.背景描写をめぐる斎藤環東浩紀の議論
 アニメ版の背景描写については、先にも触れた斎藤環の評論と、東浩紀のツイートが、考える手掛かりを与えてくれる。
 斎藤は、「『絵で描く』アニメーションは、偶然が入り込まないと言われている」という片渕監督の発言を引用し、漫画もアニメも、「偶然やノイズ」が映り込まない「『他者』の介在を許さない想像的=ナルシスティックな表現とみなされがちだった」と述べる。だがこの作品における「過剰なまでに緻密な考証作業」は、片渕のいう通り「自分たちの意図しないものがどんどん画面に入り込む」結果をもたらした。これによってこの作品は、「ナルシスティックな表現」にはならなかったというのが斎藤の評価だ。
 この評価は、この作品を肯定的に受け止めている多くの観客に、受け入れられやすいものだろう。だが、前節で見てきたように、漫画版が徹頭徹尾すずの目と手を通した「この世界」を描いているのだとすれば、アニメ版が回避しえている「ナルシスティックな表現」に陥ることは、漫画版では回避できていないことになるのだろうか。
 一方、東浩紀は、斎藤とは逆の見方から、この作品の背景描写を評価している。少し長くなるが、一連のツイートを引用する。


柄谷行人は「風景の発見」こそが近代文学の内面を作り出したと説いた。それを援用してみる。風景とは映像表現では背景である。アニメでは背景美術である。背景がリアリズムを志向し他方でキャラクターだけはデフォルメして描かれる、その二重性が広く受け入れたときアニメは「自然」なものに見える。
しかしむろんその「自然」は欺瞞である。それは現実を覆い隠す欺瞞にすぎない。その点で「君の名は。」の「美しい」「リアル」な背景は欺瞞の完成である。他方で「この世界の片隅に」はどうか。この作品では背景とキャラクターは分離されない。否、背景が絵にすぎないことがむしろ幾度も強調される。
アニメーションの本質はなにか。それはすべて嘘だということである。すべて現実ではないということである。だからそれは解離の表現に向いている。「この世界の片隅に」は解離の作品である。すずは戦争から解離している。だがその解離こそが現実であり生なのだというのが本作の主題である。
アニメはリアルな戦争は書けない。しかし人間もまたリアルな戦争など感じることができない。僕たちは現実を絵のようにしか見れないのかもしれない。むしろそのことでこそ僕たちは生き続けるのかもしれない。「片隅に」は、アニメという媒体の特性を活かして、その解離と生の関係を描いた傑作だと思う。
アニメには二つ方向がある。「僕たちもアニメのように美しい現実を生きている」と訴える方向と「僕たちは現実すらアニメのように解離して捉えているのかもしれない」と描く方向。「君の名は。」が前者だとすれば「片隅に」は後者である。好みはひとによって分かれよう。しかしぼくは後者を好む。
言い換えれば「君の名は。」は背景が物語に奉仕する作品。嘘の自然が視聴者の感情移入を支える作品。それはとても近代文学的。でも「片隅に」は違う。そこでは背景は背景として自立していない。すずは背景と物語を分離できない。でもそれこそがすずの生きる力になる。それは病者に力を与える作品。
https://togetter.com/li/1050937


 斎藤が、アニメという媒体の、絵であるがゆえに「偶然やノイズ」が映り込まないという弱点を、入念・周到な取材を通じて回避しているからという理由でこの作品の背景描写を評価しているのに対して、東は、アニメという媒体の「特性を活かして」、「背景が絵にすぎないこと」がむしろ幾度も強調されることを通じて、アニメが「すべて嘘だということ」「すべて現実ではないということ」を意識させる表現になっているからという理由で、この作品の背景描写を評価している。同じ作品の背景描写が、正反対の受け止められ方をされながら、しかしいずれも肯定的に評価されているのである。
 アニメ版の観客なら、斎藤と東の評価の違いが、この作品の背景描写のどこに注目するかの違いによることはすぐ分かるだろう。斎藤は、漫画版以上に詳細、正確に描きこまれた街並み、建物、軍艦、戦闘機等々のディテール、空襲・警戒警報の鳴らされた日時の情報、漫画では鳴らせない戦闘機や爆弾、銃弾等の音など、「事実」に即したという素朴な意味で「リアリティ」を強化する要素に注目し、東は、波のうさぎが跳ねる海が見える世界にすずと哲が入り込んでしまう場面や、空襲のさなかに見上げた空に絵の具を置くイメージが繰り広げられる場面や、「左手で描いた絵みたいに」急激に背景のタッチが変わってしまう場面に注目しているのだと思われる。
 だが総じてこのアニメ版の受け止められ方は、斎藤の評価の仕方の方が広く受け入れられる形になっているのは確かだろう。インターネット上などではいまだに、この作品がいかに微に入り細にわたって、「事実」を「正確に再現」しているかが、それを示す場面やカットなどに触れつつ、賛嘆の対象となっている。背景だけでなく、キャラクターたちの日々の家事などのこまごまとした活動の動きを「3コマ撮りのフルアニメーション」(「監督・脚本 片渕須直インタビュー」『この世界の片隅に 劇場版パンフレット』2016年)でいかに見事に表現しているかなども、同じ基準での評価だと言えるだろう。
 その意味でこの作品は、多くの観客にとってまさに東が言う「背景がリアリズムを志向し他方でキャラクターだけはデフォルメして描かれる、その二重性が広く受け入れたときアニメは「自然」なものに見える」という「欺瞞」の構図の中で受容されていると言えるだろう。この作品が描く時代を生きた世代の観客が「私はここにいたんよ」といった反応をすることを、この作品のすばらしさを証明するエピソードのようにツイートしリツイートするのは、「リアル」で「自然」だからすごい、という評価軸でこの作品を評価することである。
 だから、片渕監督がインタビュー等で、その入念というよりほとんど執念じみた取材について語るとき、しばしばすずさんを「実在」させるためにという言い回しが出てくることに、私は、本当にそれ(だけ)でいいのかなという、もやもやとした違和感を覚えざるを得なかった。それは、「この世界の片隅に」の「この世界」性を薄め、むしろ、すずがそこで生きようが死のうが関係なく存在し続ける、「思考・認識する自我に対する客観的世界」としてのthe worldであるかのように(実際はそれはアニメでしかないのに)物語世界を構築することになるのではないか。それは原作の精神の忠実な踏襲・発展であるどころか、致命的な改変になってしまっているのではないか。
 ここで私たちはさらにこの作品に即して考えを進めていきたい。斎藤と東の説を踏まえて、問いを立て直してみる。
1)一見すると、多くの観客がそこで納得してしまっているように、アニメ版における「リアリズム」、片渕監督の言葉を借りるなら「自然主義」は、基本的に全編に浸透しており、先ほども述べたように、波のうさぎの場面など、特に強調したい、すずの主観のフィルターを通した場面を際立たせる演出がなされており、物語は客観的な「世界」とすずの主観を通した「この世界」の間を行き来するように展開していると、本当に理解してよいのだろうか。
2)1)の問いに対する答えが否であるなら、アニメ版で行われた「ナルシスティックな表現」に陥ることを回避するための取材に基づく表現を欠いている漫画版はもちろん、アニメ版についても、すずの目と手を通した「この世界」しか表現されていないにもかかわらず、ナルシシズムに陥っていないとすれば、それはどのような理由でか、を問う必要があるだろう。「背景とキャラクターは分離されない」、「背景が絵にすぎないことがむしろ幾度も強調される」、「背景は背景として自立していない」、「背景と物語を分離できない」、「リアルな戦争など感じることができない」この作品において、「病者」は「現実」を全く「感じることができない」ものとして描かれているだろうか。


13.「世界」を右手でなぞる
 すでに触れたように、アニメ版にも「左手で描いた絵みたいに」「この世界」が「歪んどる」ことをすずが自覚することに至る流れの中で、背景描写が豹変する場面は存在する。だから、そこから取って返して、ここまでの、漫画版以上に「リアル」な背景描写も、やはり「右手で描いた絵」だったのだと理解することは不可能ではない。
 たしかに、極めて周到な考証によって、その時その場にどんな建物が建っていたのか、その時襲来した戦闘機や、使用された兵器がどのようなものだったか、すずがそのすべてを正確に認識しきれているとは思えない細部まで、アニメ版には描き込まれている。だがその一方で、それらはすべて、漫画版の読者も違和感を覚えない程度に、少しずつその色味や輪郭線の描き方などにおいて、ソフトに加工されていることも確かだ。
 私たちもまた、自分の肉眼に映る景色は写真のように精細に見えているにもかかわらず、後でそこにどのようなものがあったか、正確に思い出すことができなかったり、目の前にそれを見ながらであっても、模写をしようとすると全く正確にできなかったりするように、肉眼に映る映像の解像度は写真以上に精細であるにもかかわらず、それらを「ぼんやりと」受け止めていることの方が多いだろう。
 だから、アニメ版の背景描写が漫画版以上に「事実」の再現度において高精細であることは、それがすずの目と右手を通した世界でないことの根拠には、実はならないと考えることができる。したがって、アニメ版より漫画版によく当てはまるように思われた東の評価は、アニメ版に対する評価としてもやはり妥当なものだと考えることができるだろう。
 だとすれば、先の1)の問いに対する答えはさしあたりNOである。だが、私たちは、アニメ版についても、漫画版についても、斎藤の言うナルシシズムには陥っていないという感覚を、斎藤と共有できるように思える。もう一度、東のツイートを確認してみよう。


アニメはリアルな戦争は書けない。しかし人間もまたリアルな戦争など感じることができない。僕たちは現実を絵のようにしか見れないのかもしれない。むしろそのことでこそ僕たちは生き続けるのかもしれない。


 ここで東は、「リアルな戦争」が「ない」とは言っていない。「感じることができない」と言っているだけだ。「現実」も「ない」とは言っていない。全く見ることができないとも言っていない。「絵のようにしか」見られないのかもしれないといっているだけだ。「現実」はリアルなままに感じることができないとしても、絵のようにしか見られないとしても、おそらくあるにはある、という感覚がそこでは前提されており、その前提を私たちも共有する。
 すずの記憶の明晰さが、一つの手がかりになるだろう。
 すずが晴美と右手をなくした後、漫画版では見開き2ページで印象的に提示される場面、アニメ版では劇的に背景の絵柄が変わっていく場面で、右手にまつわる物語上の重要な出来事が次々すずの内語で振り返られる。


昨日 ない事を思い知った右手


六月には 晴美さんとつないだ右手
五月には 周作さんの寝顔を描いた右手
四月には テルさんの紅を握りしめた右手
三月には 久夫さんの教科書を書き写した右手
(中略)
去年の四月には たんぽぽの綿毛を摘んだ右手
去年の三月には ふるさとを描きとめた右手
去年の二月には 初めて周作さんに触った右手


一昨年の暮れには 海苔すきが大好きだった右手
七年前の二月には うさぎをいくつも描いた右手


十年前の八月には すみちゃんのために砂にお母ちゃんを描いた右手


 すずはこれを布団の上に上体を起こして、なくなった右手を見つめるようにしながら、思い起こしている。ここで言われていることは、すべて各回タイトルと共に私たちがこの作品で見て来た出来事であり、手元の本をさかのぼりさえすれば、容易にそれを再確認することができる。だが、物語内の人物であるすずに、手元の本を確認することはできない。すずは、自分の右手にまつわる記憶を、時系列を混乱させるどころか、何年何月のことかまで、瞬時に正確に思い出せるのだ。
 すずが「ぼうっと」していることは、すずの認識力や記憶力が弱いことを意味していない。すずは、ものごとがよく見えない聞こえない感じとれない覚えられない人なのではなく、むしろ普通の人より見えすぎ聞こえすぎ感じすぎ覚えすぎるために、必要な情報と不要な情報をうまくすばやく区別できない類の人なのではないか。いい意味で「適当に」流したり飛ばしたりすることができないために、あることに気を取られるとほかのことが入ってこなくなってしまう。これが東のいう「解離」の状態であり、「ぼうっとした子」だとみなされてしまう要因なのではないか。
 そんなすずにとって、五感で知覚することだけでなく、絵に描くこと=右手を通すことは、あまりにも未知のことが多すぎる「世界(the world)」を整理して受け止め直し、いわば「世界」を落ち着かせて、「この世界」として受け止め直すことなのではないか。
 「この世界」はナルシシズムに陥った「私(だけ)の世界」ではない。先に触れた、漫画版に見られる「世界」を含むセリフを見ても「私の世界」というフレーズはない。「わたしのこの世界で出会ったすべては」というフレーズはあるが、これは「わたしの」が「出会ったすべて」にかかると見るのが妥当だろう。
 「世界」、先の斎藤・東の文脈では「現実」は、すずにとってしばしば見えすぎるものとして存在し、すずが「私の世界」に閉じこもることを許さない。だからすずは、「世界」を右手でなぞること=描くことを通じて、「世界」に「私の世界」を重ね合わせて「この世界」にしているのだ。
 右手を失ってしまうことできめ細やかに「世界」をなぞることができなくなり、「この世界」は稚拙で乱雑なものとしてしか構築できなくなってしまう。失調した「私の世界」が前に出すぎてきてしまう。そのことをすずは「歪んどる」と言っている。
 一方、右手が機能しているときにも、「世界」は基本的には見えすぎ聞こえすぎるものとして「ある」ので、まだ右手を通していない未知のものが多すぎる風景に出会った時や、改めて「世界」をなぞり直そうとしたときには、普段の落ち着いた風景とは見え方が違ってくる。漫画版で言えば、すずが初めて呉に来た時、広島に里帰りしたとき、「さよなら」の気持ちを込めてスケッチする時、背景の輪郭線が消えるのは、その状態を表しているだろう。
 アニメ版については、呉に襲来する戦闘機の音、銃弾の発射音、炸裂音、迎撃する対空砲火の音、等々、すずの間近で行われる戦闘による音が、普段の一見「リアル」な「世界」に見える背景描写が、あくまですずの右手を通して落ち着かせられた「この世界」に過ぎないことを明らかにするものとして、鳴らされている。
 自衛隊の訓練に取材して録音されたというそれらの音は、劇場のスピーカーを通して鳴らされる時、耳ではなく身体でその空気の振動を「痛い」と感じるレベルのものであり、他のシーンのBGMや効果音、セリフ等とは明らかに水準の違うものとして響く。それは、それ以外のシーンの音が、あくまですずのフィルターを通ったものであることに気づかせ、「この世界」の外に確かにあるはずの「世界」から、すずのフィルターを引き裂いて私たちを直撃する現実として到来する。
 右手を通す前にいきなりやってくる現実は、「この世界」のあちこちに裂け目を作ってしまう。「ああ、今ここに絵の具があれば」と思ってしまうすずは、受け止めきれない現実に、どうにかして絵の具を置こうとするしかない。この、すずが空に絵の具を置いていくイメージを浮かべる場面の存在によって、ひとくくりにこの作品の「リアリズム」の例とされてしまうことが多い風景描写と、戦闘場面の音は、同じ水準の「リアル」ではなく、むしろこの作品の「リアリティ」の(「世界」と「この世界」の)重層性をこそ示している。
 すずは、「現実」を感じることができないのではなく、感じすぎてしまう。だから、「現実」を、「絵のようにしか見られない」のではなく、「絵」を重ね合わせないと普通の意味で「見る」こと、すなわちある程度適当に見ないで済ますこと、ができない。
 このように理解すれば、斎藤のいうナルシシズムの回避と、東のいう「現実」との「解離」は、漫画版についてもアニメ版についても、両立しうる解釈になる。そしてまた、このエッセイの出発点に置いた、なぜ、大切な人の顔を忘れてしまうかもしれないとすずが言うのか、という問いに対する答えも、得ることができる。
 右手を通した物事については明晰に記憶できるすずが、大切な人のはずである周作の顔を忘れてしまうかもしれんと言うのは、すずにとって、この時点でまだ、周作の顔は右手でなぞることのできていない顔だからなのだ。いうまでもなく、すずと哲との関係、周作とリンとの関係が、そこに影を落としている。
 

14.哲と周作
 水原哲と北條周作という二人の男性の存在は、「この世界」が、すずの自由にはならない人や出来事の到来を拒否できないことを示す、重要な要素である。
 哲と周作のすずとの関わり方は対照的だ。二人がすずにかける言葉が、それをよく表している。
 納屋の二階で二人きりになり、南洋で拾った鷺のような鳥の羽をすずに渡し、すずがそれを羽ペンに仕立てて鷺の絵を描く流れの中で、哲はすずを左腕で抱き寄せ、「すずはぬくいのう やわいのう あまいのう」と言いながらもたれかかっていく。すずの「うちはこういう日が来るのをずっと待ちよった気がする」と「あの人に腹が立って仕方がない!」のあと、二人の姿が見えないショットがいくつか続いた後、哲は当然のようにすずにひざまくらをさせて寝転んでいて、すずもそれを受け入れている。
 この日、呉での入湯上陸に際して、不意にすずを訪ねて来た哲は、すずの幼馴染だというだけで縁もゆかりもない北條家で、おそらく意図的に大きな態度を取り、「すず、すず、よびすてにしくさって!」とすずを怒らせる。灰皿で哲の頭を叩くすずのそのしぐさは、結果的に、誰の目にもすずと哲の関係が、周作以上に近しいものであることを示してしまう。
 アニメ版では省略されているが、小学校時代の哲は、「水原を見たら全速力で逃げろいう女子の掟」があると言われていて、これは、すずの兄について言われる「浦野の鬼いちゃんを見たら全速力で逃げろいう男子の掟がある」と呼応して、哲がすずの兄と同類の乱暴者とみなされていることを意味している。
 すずに対してもぶっきらぼうで、言いたいことをストレートに言えない物言いながら、すずに対する好意と気遣いは、様々な形で示されている。
 一方の習作は、哲が訪ねて来た時もその前後も、すずのことを「すずさん」と呼ぶ。哲とすずのお互いへの思いを察して、あえて納屋の二階で過ごすことを促し、あまつさえ母屋に鍵をかける。漫画版ではこの時すでにすずは周作とリンのことを知っており、読者に、周作にそのことに関するうしろめたさもあってすずにも哲と一夜を過ごすことを許しているのではないかと、思わせる流れになっている。
 このエピソードの後に置かれた、自分の応召をすずに告げることになる夜のエピソードで、周作はすずの頭に手を当てて、「すずさんはこまいのう」と言う。「立ってもこまい」。細馬が指摘するように、「こまい」には、小さいとか背が低いというだけでなく、子供っぽい、幼い、といったニュアンスも込められている。周作は、「すずさん」とさん付けで呼び続ける距離感を保ちつつ、「こまい」すずに対する保護者として振る舞おうとしている。そしてその覚悟の強さは、実際、すずが機銃掃射にさらされる場面で、体を張ってすずを守るという形で証明される。
 女性に対して乱暴な態度を取りながら、そのじつ、女性に「母性」を求めて甘えていく哲と、女性を自分より弱い存在と位置付け、体を張って女性の保護者として振る舞う周作は、対照的ではあるが、いずれもある種の典型的な男性性を体現している。すずを丁重に扱っている周作が、あくまですずより強い存在として自分を位置づけようとしている分、あからさまに弱さを見せてくる哲の方が、すずにとって、対等に付き合える存在であるようにも見える。
 その哲のイメージを担っているのが椿の花だ。波のうさぎをすずが描いている間、哲はいつの間にか集めたこくば(落ち松葉)の上に椿の花を置いている。このシーンは非常に印象的に描かれているので、これ以降、椿は、哲を思い起こさせるイメージとなる。周作が父と初めて浦野家を訪ねて来た時、すずは椿の模様の友禅を身にまとっている。そしてそれを晴れ着にして嫁入りする。哲への思いを抱えたまま、嫁入りしていることが、示されているのである。
 アニメ版では、初夜の前に入浴する時、すずが髪飾りにしていた椿の花を風呂場に置いている様子が描かれ、寝室には持って行っていない。だが(これは漫画版でも同様だが)椿模様の晴れ着は寝室に持って行き、えもんかけに掛けている。哲のイメージを担った椿が目に見えるところで、周作との初夜を迎えている。すずが、周作との結婚によって、すっかり哲への思いを断ち切ったわけではないのは、これらのことから明らかだったのであり、哲との一夜の場面で、すずが「うちはこういう日が来るのをずっと待ちよった気がする」と言い出すのは、既に予告されていたことだったのである。
 「周作さんの顔を忘れてしまうかもしれん」とすずが言うのは、すずが哲への思いを断ち切れず、その一方で周作のことも好きになっていくという複雑な「私の世界」のありようが、周作の顔を右手でなぞって、「この世界」に落ち着かせるという行為を、すずにためらわせていたことを意味するだろう。
 哲との一夜において、すずは鷺の絵を描いて、「水原さん」としか呼んでいなかった哲に対して「哲さん」と書き添えて渡す。言うまでもなく鷺はすずを象徴するイメージである。アニメ版では、冒頭の海苔を売りに行くため砂利船に乗るシーンや大潮の日の干潟を歩いて渡っていくシーンで、漫画版にはない、鷺がすずを先導するように飛んでいく様子が描かれている。そして漫画版でもアニメ版でも、すずが右手と晴美を失った後の空襲の際に、どこからともなくすずの前に鷺が現れ、すずはその鷺に広島へ逃げろと言っている。椿と哲の結びつき同様、鷺とすずははっきりと結びついている。
 南洋の海上で鷺のような鳥に出会いその羽を拾ったと言ってすずに渡す哲。そしてその羽を羽ペンに仕立てて描いた鷺の絵を哲に渡すことは、生身の自分の代わりにこのイメージを自分として受け取ってほしいということだろう。哲への思いを一方では完遂しつつ、一方では断念するという二重の意味を帯びた行為が、鷺の絵を渡すことなのである。
 「顔を忘れてしまうかもしれん」はそこからおよそ半年後(哲が訪ねてくるエピソードは「第21回 昭和19年12月」と「第22回 昭和19年12月」の2回にわたって描かれている。そして周作がすずに「三月は戻らん」と告げるのは「第31回 昭和20年5月」だ)のエピソードで出てくる言葉だ。この時点でもまだ、すずは周作の顔を右手でなぞれていない。少しずつ離れていっているとはいえ、哲への思いが消え失せているわけではなく、リンと周作の関係に対するわだかまりも残っている。だが、それでもすずは、その数日後、周作が海兵隊での訓練のため家を出る前夜、周作の顔をスケッチする。
 「この世界」では周作と夫婦として生きることを選んだすずにとって、哲ではなく周作であったことに、たまたま先に周作に求婚されたから、という以上の必然性はあるだろうか。
 言うまでもなく、物語上、すずとの関わりが先に語られるのは周作の方だ。ばけもんの籠の中での出会いのエピソードがあった上で、小学校時代の哲との関わり(「波のうさぎ」)が語られる。周作は単にいきなりやってきた人ではなく、幼少期に既に会っている人物だ。だが、それだけでは、小学校時代以来の付き合いの長さやその関係性からして、周作に哲を上回る部分はないように思える。
 だが実際には非常に重要な要素がある。周作とすずの関係は、単にばけもんの籠の中で出会っていた、そして再会後は保護すべき存在としてのすずを周作が体を張って守る、というものには尽きない。ばけもんの籠から二人はどのように脱出したか。すずが機転を利かせて海苔に切り絵で夜の風景を描いてばけもんの望遠鏡に貼り、それを覗かせ、ばけもんを眠らせてしまったことによってである。最初の出会いにおいては、すずが周作を救っているのだ。だから、すずと周作の関係は、実は一方的に周作がすずを守るというものではない。周作が体を張って機銃掃射からすずを守るのは、最初の救出劇への返礼であって、その意味で二人の関係は対等なのだ。
 哲はどうか。哲との関わりが最初に描かれる「波のうさぎ」において、哲は、絵を描くことが好きなのに、家が貧しくて鉛筆一つ買うのも我慢しなければならないすずに、兄が遺した鉛筆を渡している。それに対してすずは、海が描けずにいる哲の代わりに波のうさぎのいる海を描いている。哲がすずを助け、すずもそれに応えて哲を助けている。ここにも、二人が助け合う関係が成立している。
 そうするとやはり、周作と哲の間に、決定的な違いはないのだろうか。すずが周作と生きることになったのは、偶然の成り行きなのだろうか。もしかすると関わりがありそうなことが一つある。「甘い」という味覚のイメージだ。
 最初の出逢いの時、すずはその出来事を漫画に描いて、すみに見せている。その時すでに周作の顔を描いている。だから右手を通ったその記憶は、幼い時の「昼間見た夢」のようなものであったにもかかわらず、すずの中に残っている。そして、周作が父と現れた時、アニメ版では、漫画版にない、次のようなすずの内語が聞こえてくる。「口の中にキャラメルの味広がった気がしたのは、なんでだったんじゃろ」。
 甘い、という味覚のイメージは、この作品の中で人と人の少し特別な関係を示すものとして働いている。哲はすずを「あまいのう」と言い、すずは今見たように周作をキャラメルの味の記憶と結びつけている。リンがすずに絵に描いてくれとねだる食べ物、すいか、わらび餅、ハッカ糖、「ウエハー」の乗ったアイスクリームは、みな甘いもので、すいかはかつて天井から降りてきたリンにすずが分け与えたものであり、ウエハーの乗ったアイスクリームは、リンが遊郭に引き取られるときに、喫茶店で食べさせてもらっているものだ。晴美とすずは、砂糖壺を水がめに落とすという、甘いものをめぐる出来事の記憶を共有している。
 哲はすずを「あまいのう」と言うが、すずは哲を甘さとは結び付けておらず、周作とすずは甘いものの記憶を共有し、すずは周作をキャラメルの味=甘さと結びつけている。そして周作がリンを甘さと結びつけている描写はなく、りんどうの花との結びつきが重要なようだ。すずは哲を、周作はリンを、甘さの記憶と結びつけていない。すずと周作の相対的な結びつきの強さが、ここに表れているのではないか。
 そしてもう一つ、周作の見つける力という要素がある。周作の観察力の高さは、ばけもんの籠の中ですずの靴下に書かれた名前に気づいているところで示唆されている。父と訪ねてきた際は、名前と、家が海苔の製造販売をしているという手掛かりだけから、すでに「3年前に海苔はやめた」後だというのに、浦野家を見つけ出している。この時「苦労した」と言っているのは周作の父の円太郎なので、周作の見つける力は父譲りなのかもしれない。
 そして、すずには、その左の頬に触れながら、初夜には「昔もここへ ほくろがあった」と言い、被爆後の相生橋の上では「ここへ ほくろがあるけえ すぐわかるで」と言う。受け手はこの作品の中で、顔にほくろがあることなど、人を見つける上でいかにも頼りない手掛かりに過ぎないことを知らされている。隣組刈谷さんは、被爆して全身黒焦げになった自分の息子が分からなかった。広島では、人が人を探して、尋ね人と他人を見間違えるということが繰り返されている。それでもそんな広島で、しゃがみこんでいるすずの背後から、ほくろを目印にしたとは思えない位置から、周作は、当然のようにすずを見つける。
 周作の自信に、どのような根拠があるのかは、漫画版でもアニメ版でも明らかにされることはない。だが周作に、少なくともどんな状況であれ、すずを見つけ出す特権的な力が備わっているとしか考えられないような描き方がなされているのは確かだ。わずかな手掛かりは、周作の軍法会議所の録事という仕事だ。調書の作成や記録などをつかさどる仕事。そういえば、周作は、読み書きのできないリンのために、リンの名前と住所と血液型を記した紙を渡していた。リンにとってそれは、鷺の絵が哲にとってすずであるように、ほとんど周作そのものだろう。周作は、「困りゃあ売れる」財産と同じような、ただの子供一般、遊女一般として扱われかねない境遇のリンの、名前と居場所を紙に記録し、リンに、その名前と居場所を定めてやっている。
 だから、ことによると周作には、どこにいるか分からない人を見つけ出す力ではなく、人の名前と居場所を、「記録する人」としての自らの力によって、定めてしまうことができるのではないか。であれば、その居場所は、探すまでもなく、いつでも分かる。だが皮肉なことに、その記録に使われた紙(周作の帳面の裏表紙の一部分)が、すずに周作とリンの関係を気付かせる。
 私たちは、いつの間にか妄想に近い推測の域に入り込んでいるようだ。だが、最初に触れた、すずの受動性、受動的であるにもかかわらず、決定的な偶然を引き寄せ、周作に見つけてもらえる特権を享受し、世界の片隅どころか中心に位置し続けるかのようなすずのあり方を、本当にそのように評してよいのか問い直すためには、すずの右手のほとんど魔術的な力について、考えないわけにはいかない。


15.重ね合わせること(2)
 アニメ版では省略されているが、漫画版では、すずがリンをたずねて遊郭に行った時に、リンと同じ店で働くテルという女性との交流が描かれている。のちに風邪をこじらせてあっさり死んでしまったテルの口紅を、すずはリンから譲り受ける。これで「キレイにし」と言って、リンはその紅をすずの口に引いている。テルの紅をつけたリンの指先が、すずの唇に触れる。この印象的なやり取りを通じて、テルの紅は、単にテルの紅ではなく、リンの指先と結びついたものになる。
 この場面では、テルの口紅をもらう前に、おそらくリンとの結婚を想定して周作が買っていたりんどうの柄の茶碗を、すずがリンに渡している。リンははっきりとは言わないけれど、そのことの意味を理解しているように見える。リンは、周作が自分のために用意した茶碗を受け取り、それに応えるように、すずにテルの口紅を譲っている。特定のモノやイメージを、人の存在と結びつけ、重ね合わせることは、この作品の登場人物たちが意識的に行っていることである。
 アニメ版でもこの口紅そのものは、特に説明なくすずの手提げの中にあり、「四月には テルさんの紅を握りしめた右手」という言葉も残されている。周作が海兵団での訓練へと出発する日の朝、すずはその紅を自分の口に引く。哲への思いをあきらめることとあきらめないことを表裏一体に重ね合わせた鷺の絵を、哲に渡すことを自分に許したすずは、今度は自らの唇の上に、リンの周作への思いと自分の周作への思いを重ね合わせる。
 テルの口紅は、すずが機銃掃射にさらされ、すずをかばって周作が飛びついてきたときに、すずの手提げとともにすずの手から離れる。漫画版では手提げから口紅が投げ出されるだけだが、アニメ版では口紅に銃弾が直撃し、砕け散る様子が描かれる。周作が、リンではなくすずを選んでいることが、残酷なまでにはっきり示されるシーンだ。さらにアニメ版では、砕けた紅が、道に落ちていることが画面の中で見えている状態で、側溝の中ですずが「帰る!帰る!広島へ、帰る!」と言い出すやり取りが展開している。周作はもはやほぼ完全にすずを選んでしまっている一方、すずはまだリンの思いの強さを感じ続けている。
 少しエピソードをさかのぼる。届けものをさせる口実で、周作がすずを呼び出し、街中でちょっとしたデートをする。多くの水兵が上陸して街は混雑していて、その様子にすずは哲のことを思い出し、呉に来てからの自分を知らない昔の知り合いに会ったら、夢が覚めるんじゃないかと思うのかもしれないという。「今覚めたらおもしろうない」「これがほんまならええ思うんです」。これに応じて周作は、次のように言う。「過ぎたこと、選ばんかった道 みな、覚めた夢と変わりやせんな」。
 すずが、今ここの「この世界」が夢だったらというささやかな不安を口にし、「これがほんま」であることを願望として言っているのに対して、周作は逆に「過ぎたこと、選ばんかった道」は夢と変わりないと言っていて、実は話がかみ合っていない。
 「あんたを選んだんは わしにとって多分 最良の現実じゃ」(アニメ版では「最良の現実」が「最良の選択」になっている)と言う周作にとって、今ここが「選択」した「現実」であることはかなりゆるぎないこととしてある。「選ばんかった道」、すなわちありえた可能性はあくまで「ありえた」という過去形で捉えられるものとしてある。
 だがすずにとって「選ばんかった道」は、まだ「ありうる」可能性であり続けている。「この世界」はいつも、過ぎ去ってくれない「このようでない世界」の可能性に付きまとわれている。というより、すず自身が、「この世界」に「このようでない世界」の可能性を重ね合わせ続けていて、それこそがすずの「この世界」のありようになっている。椿の柄の着物で嫁入りし、初夜の寝室にまで持ち込むこと。鷺の絵に「哲さん」への思いを書き添えて哲に渡すこと。リンからもらったテルの口紅をつけて周作を見送ること。だからその口紅が砕け散ってもなお、その存在を感じ続ける。


16.右手のたたかい
 すずは、右手で「世界」をなぞって「私の世界」を重ね合わせて「この世界」を作り出す。「世界」は「ある」から、「この世界」は100パーセント「うち」の思い通りになる世界ではない。周作と哲に出会い、リンに出会い、空襲にさらされる。ときには「この世界」に亀裂が走り、ときには「私の世界」が「歪み」をもたらす。「この世界」にはいつも「このようでない世界」の可能性が重ね合わされている。「この世界」が「この世界」として成立していることはほとんど奇跡のような出来事である。「生きてるっていうだけで涙があふれてくる」というのんの言葉は、この奇跡性を言い当てているように思える。
 この奇跡の成立に対して、すずは何もしていないだろうか。すずは本当に受動的なままに「この世界」の中心に位置し続けているのかという問いに、私たちは帰ってきた。
 もはや言うまでもないだろう。右手で「世界」をなぞって「私の世界」を重ね合わせて「この世界」を作り出すことは、すずの、すずなりの能動性の結果である。たしかにそれは、すずにとって、息をするのと同じくらい無意識的に、体がいつのまにかそうしてしまう当然さで、行われていることだ。だからそれに主体性とか能動性という言葉を与えるのは必ずしも適当ではないかもしれない。それでも、すずは、ただ流されるままに生きているわけではない。すずの右手は、常に、たたかい続けている。
 すずの右手は、絵を描く。絵を描くことは、すずにとって見えすぎ聞こえすぎ感じすぎる「世界」から身を守るための防衛戦/防衛線であるとともに、「世界」に対して積極的に働きかける抵抗戦/抵抗線でもある。私たちは、右手で「世界」をなぞって「私の世界」を重ね合わせて「この世界」を作り出すと言ってきたけれど、いまや「この世界」とは、右手と「世界」のたたかいの結果もたらされるものなのだと言い換えるべきかもしれない。
 この物語の最初に置かれたエピソードで、すずの右手は、海苔を切り抜いて切り絵で夜の景色を描き出し、ばけもんを眠らせ、周作と自らを救出している。先に触れたように、周作がいつもすずを見つけ出し、体を張ってすずを守るのは、その返礼である。初めにあったのはすずの受動性ではなく能動性だったのだ。
 すずの右手は、妹のすみに対して、絵を描いてやり、物語を生み出す。ときには紙に、ときには干潟の砂に。すずとすみがしょっちゅう当意即妙の掛け合いで即興的にちょっとしたお芝居を繰り広げるのは、すずの描いた絵の世界に、すみが日常的に巻き込まれているからだ。
 すずの右手は、波のうさぎが跳ねる海の絵の中に、哲を描き込んで、哲が「海を嫌いになれん」ようにしてしまう。すみに対してそうであるように、哲に対してそうであるように、誰かにあてて絵を描くことは、相手の世界を少し描き替えようとする試みだ。
 すずの右手は、描くことで「世界」を、状況を変えていこうとしている。アニメ版ですずが晴美と一緒に魚の絵を描きながら、「大きゅうかいたら大きゅうなるよ」と言っているのを、私たちは文字通りに受け止めなければならない。
 漫画版にもいくつかある、すずが天井をじっと見つめるシーンに、アニメ版は重要なアクションを付け加えている。大潮の日、草津のおばあちゃんの家で昼寝しているとき、すずは天井の木目を右手の人差し指でなぞっている。すると天井板をずらしてリン(と後に分かる少女)が現れる。まるで木目をなぞることがリンを呼び出すまじないだったかのように。
 この次にすずが天井の木目をなぞるのはいつか。周作との初夜である。眠っている周作の隣で天井を見つめながら、すずはまた木目をなぞっている。このとき、すずは、夫婦となった自分と周作の間に、かつて自分が木目をなぞって呼び出した少女を、おそらくは無自覚に、再び召還しようとしている。そして朝日遊郭で迷子になってしまったすずが地面に右手の指で甘いものたちの絵を描いていると、そこにリンが現れる。
 リンが、かつてすずがスイカを与えた少女として実在し、そのリンが今すずが結婚した相手とかつて関係を結んでいたこと、そしてそのリンと再会してしまい、二人の関係にも気づいてしまうこと。この一連の奇跡的な偶然は、右手の指で世界をなぞるというすずの行為によってもたらされているのだ。私たちのこの発想は、細馬宏通によっても共有されているようだ。


「右手」の力は、すずが幼い頃、祖母の家の天井の木目をなぞっていたあの謎めいた所作によってすでに発揮されていたのだろうか。そう考えてから、わたしはこのアニメーションがリンの物語に新たな光を当てていることに気づく。
細馬宏通「アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(2)『かく』時間」 https://magazine.manba.co.jp/2016/11/30/hosoma-konosekai02/


 「世界」をなぞるという右手のたたかい。右手の持つほとんど魔術的な力は、しかし、いつも勝利するわけではない。不意の空襲のように右手が間に合わない場合だけではない。右手で絵を描くという行為をもってしてもなお「世界」に敗れ去ることがある。
 空襲でけがをして入院していた義父を晴美とともに見舞った後、呉の港付近で不意に空襲に会った時、防空壕の中で不安を訴える晴美に対して、すずは、いつもすみに対してそうしてやっていたように、地面に晴美と径子の絵を描いて、晴美を安心させてやる。果たしてこの作品の中で最も壮絶な爆音に見舞われながら、空襲は終わり、晴美とすずは無事防空壕を出る。幼い周作に対して、妹のすみに対して、兄を失った哲に対してそうしてきたように、またしてもすずの右手が「世界」から自分の関わる人を守ったかに見えたのもつかのま、この作品でもっとも悲痛な場面が訪れる。時間差で爆発した爆弾に、右手は晴美もろとも吹き飛ばされてしまう。
 音が消えてしまう爆発の瞬間のショットの後、真っ暗闇の中に、ノーマン・マクラレンの「線と色の即興詩」を思わせる、シネカリグラフィによるようなイメージが浮かんでくる。笹の葉や鳥を思わせるイメージの変容はやがて、晴美のイメージへとつながっていく。細馬はこの場面について次のように述べている。


 一見すると唐突なこの引用は、不思議なイメージの連鎖によって『この世界の片隅に』と結びついている。その蝶番となっているのが笹柄だ。原作では四枚葉になってる笹柄は、アニメーションでは三枚葉として描かれている。そのことによって、葉はあたかも鳥の足跡のように見える。そしてマクラレンの『線と色の即興詩』こそは、二羽の変態を繰り返すばけもん、三つの長い前趾を持つ鳥たちの詩なのである。
 マクラレンのこの即興詩では、二匹は葛藤とも求愛ともつかぬやりとりの果てに絡み合い一つになると、時間を遡るように卵となり、そこから新たないきものとして孵化する。そこで感じられるのは、単に交尾と繁殖という因果よりも、むしろ、この世に生まれ直すための因果を見つけにいくような、遡行の感覚である。
 『この世界の片隅に』のシネカリグラフィで用いられているのは、鳥の足跡のみならず、この遡行のイメージである。鳥の足跡と見まがうような笹柄が、すずと晴美のつないだ手へと変化し、さらにはすずがかつて縫っていた反物のイメージを導く。そして不思議なことに、もんぺを作るためにすずによって裁たれたはずの布は、一枚の着物へと戻る。まるで笹柄の因果を逆に遡るように。
細馬宏通「アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(6)笹の因果」 https://magazine.manba.co.jp/2016/12/29/hosoma-konosekai06/


 世界とのたたかいに敗れ、物理的には吹き飛ばされてしまった右手は、それでもなお、すずの「私の世界」の中で、「この世に生まれ直すための因果を見つけにいくような」絵を描いている。
 右手は失われたけれど失われていない。哲をあきらめるけれどあきらめない。リンと周作の関係に悩み、リンの代わりにはなれないと思いながら、リンからもらった紅を自分の唇に重ねる。すずが行使してきた重ね合わせ、すずと「この世界」がまとってきた二重性が、失われた右手においても成立している。だがはじめのうち、すずはそれに気づいていない。
 径子に「あんたがついていながら」、「人殺し!」となじられる場面で、すずはじっと天井を見つめている。だがもちろん木目を指でなぞる右手はない。「この世界」は左手で描いた絵みたいに歪むようになる。アニメ版ではそれが強調されるのは一瞬だが、漫画版では最終回まで左手で描かれた背景が現れ続ける(最終回で重要な変容があるのだが)。
 右手を(完全に)失った(と思いこんだ)すずは、「世界」と「私の世界」の不調和に見舞われ、「ぼうっとした」自分、見えすぎ聞こえすぎ感じすぎる自分のままでいることが、右手なしでは無理になってしまう。すずの心理状態は著しく不安定になる。「どこがどうよかったんか、うちにはさっぱり分からん」。空襲のさなかに自分の前に舞い降りた鷺に、広島へ逃げろと言いながら駆け出し、機銃掃射にさらされ、周作に助けられ、「広島へ帰る!」と言う。「聞こえん!聞こえん!いっこも聞こえん!」。
 広島へ帰ろうとしていた8月6日、径子の言葉に対して、「ここへ居らしてもらえますか」とすずは応える。径子に与えられた(普通の意味で)主体的な選択の機会に、主体的な選択をすること。右手を失った代わりに立ち上がった主体性。(普通の意味で)明晰な意識。周作との会話の中で述べられる「なんでも使うて暮らし続けるのがうちらのたたかいですけえ」という言葉の示す明快さ。「そんとな暴力に屈するもんかね」という言葉の示す強い意志。だがそれらが、「世界」と戦うにはいかにも脆弱で、「世界」をなぞるにはいかにも目の粗いものだったことが、ほんの数日後の玉音放送で明らかになる。
 右手を失い、晴美を失うという受け入れがたい現実を、敗れてしまった右手のたたかいを、破れてしまった「この世界」を、どうにか受け入れ、納得するための、言葉の上の理屈としての「うちらのたたかい」。「最後の一人までたたかうんじゃなかったんかね!」「まだ左手も両足も残っとるのに!」。
 掲げられた太極旗を見て、覚醒し始めたばかりのすずの意識は即座に気づく。「暮らし続ける」というたたかいさえ「うちら」だけでは実は成り立っていなかったことに。「海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんでできとるんじゃなあ、うちは」。
 「何も考えん、ぼうっとしたうちのまま死にたかったなあ」。「ぼうっとした」自分を封じ込め、言語的な意識と主体性を立ち上げたすずの「たたかい」は、右手のたたかいほどの力を持ちえないままに敗れ去る。だが一度覚醒した主体性はそれで消え去るわけではない。自らの力の不十分さを、意識的な主体性(ぼうっとしていない「うち」)が自覚した時、封じ込められていたぼうっとした「うち」が解放されている。
 ぼうっとしたうちのままでいられなくなったすずは、8月15日を経て、ぼうっとしたうちのままでいられなくなった自分と、ぼうっとしたうちとしての自分の二重性を、生きられるようになる。だから、すずの中の右手が帰ってくる。漫画版では畑での号泣・絶叫の後すぐに、アニメ版ではその日の夕食の時に、右手がすずの頭をなでる。
 右手は帰ってくる。物理的には失われても、右手があったという事実は失われない。右手が行っていたことを、右手とつながっていたすずの身体は、覚えている。
 原爆症の症状で床についたままのすみと再会し、その隣に添い寝したすずは、手首から先が失われ、包帯の巻かれた右腕を、天井に向かって掲げる。右手と晴美を失った直後にはただ見つめるしかなかった天井に向かって掲げる。「ああ、右手がありゃあ鬼イチャンの南洋冒険記でも描いてあげられるのにねえ」。
 そのようにさらっと言える程度に、すずは、物理的には右手が失われてしまっていることを受け入れている。そして「それ、どんなん?」と嬉しそうに聞いてきたすみに、すずはその物語を語って聞かせる。漫画版でもアニメ版でも、その物語は、かつて右手を使ってすずが描いていたのと同じ絵柄で描き出される。右手は、やはり帰ってきている。
 そして不安げに、すみが天井に掲げて見せた紫色に変色した左腕に、すずは左手を添える。物理的には働けない右手の役割は、今はまだ歪んだ世界しか描けない左手に担わせて、すみの世界に寄り添おうとしている。帰ってきた右手と、失われていない左手で、再び「この世界」を描き直し、作り直し、「この世界」にやってくる大切な人々の世界に働きかけながら、生きる意志が、示される。


字数制限を超えてしまったので(3)↓に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20170828/1503842260