宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

町山智浩さんの「映画 鈴木先生」評について

 町山智浩さんが、『漫画アクション』連載コラムに書かれた「映画 鈴木先生」評のノーカット版が、町山さんのブログに掲載され、話題を呼んでいるようです。


http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20130219


 19日に掲載されたばかりですが、ブックマークは100を超え、ツイッターでもどんどん拡散している模様。ツイッターを見ると、(「鈴木先生」が連載されてた『漫画アクション』でこれを書くことも含めて)町山さんすごい的な感想が添えられていることも多いのですが、それらのツイートのほとんどは、実際には映画を見ていない人によるもののようであることに不安を覚えます。
 批評家として、自分が抱いた感想は、掲載媒体にも遠慮せず、はっきり述べるというのは、まったくもって正しく、むしろ「鈴木先生」的だと言えると思います。なので、町山さんが映画版批判を書かれているという情報を得たときは、おおさすが町山さん、と思いつつ、こちらの気付いていないどんな欠点を指摘されるのか、どきどきしながら待ち構えてもいました。


 が、読んでみたところ、少なくとも僕には???が並ぶ内容でした。確かにこの文章だけ読むと、もしここに書かれている映画や原作漫画についての認識に間違いがないなら、さすがの批評だといえるような、びしっと決まった評論になってるんですが、そもそもその認識に疑問をいただかざるを得ないんですね。


 まず、クロースアップが少ないのは事実だけど、町山さん自身「ほとんどのシーンはロングないしミディアム・ショットの長回しで撮られている。」と書かれているように、ミディアムショット、すなわち腰から上ぐらいの半身像を収めるショットは普通にたくさんあるので、「登場人物たちの顔がまるで見えないのだ」と断言されても、え?そうですか?というのがまず一つの素朴な疑問。
 例に挙げられている平良のシーンは確かにちょっと暗めかなとは思うけど、「まるで見えない」というレベルではないと思いますし、演説会での中村のシーンなど、中村が気を取り直して、「きっと慣れます」という時の顔なんて、すごく印象的なショットに収まってると思うんです。
 

 それでも、クロースアップをもっと多用すれば、もっとよく顔が見えて、映画ならではの演出になるのに、という考えもあるとは思いますが、それについても、クロースアップを増やすとカット割りが細かくなって編集でつないでる嘘くさい感じが出かねないとこもあり、ちょっと引いた絵の長回しの方が、この作品に必要なリアルさが出るのでは?ってことが、次の疑問点になります。
 漫画と違って、生身の役者さんが演じていると、クロースアップを多用した場合の、嘘くささは増すリスクも高い気がするんですよね。
 たとえば教室でユウジと鈴木先生が対峙するシーンで、ユウジのクロースアップ→鈴木先生のクロースアップ→ユウジのクロースアップなんていうのが続いていたら、あのシーンの緊迫感やユウジの全身の演技はよく伝わっていたでしょうか?
 クロースアップを使えば映画的になる、使わないと映画にしている意味がない、なんて短絡的なことはさすがに町山さんも思ってないんじゃないかと思うんですが、この評論だけを見ると、その辺のニュアンスがよくわからないんですね。
 

 そして最後に、クロースアップの多用にこそ、「周りの人を背景の書き割りのように考えてはいけない」という原作の思想が表れているのだから、この映画はそこをとらえ損ねている、という、この評論の一番重要な主張についても、疑問があります。
 「鈴木先生」の原作が顔のクロースアップを多用しているのは事実ですが、それは武富さん自身『ユリイカ』の武富特集での伊藤剛さんと僕との鼎談で言っているように、「長ゼリフを言い切る強度を保たせる」ために「演劇的に舞台で突っ立って喋る」ような演出になってるところで多用されてるという面もあるんですね。
 このことは、僕もこの鼎談の中で言われてなるほどと思ったんですが、実際、この原作漫画を見て、特に「鈴木裁判」編などを見ると、映画的というより演劇的というのは、単に原作者が言うからというのではなく、批評として的確な指摘だと思います。
 ユリイカの鼎談から、僕の「やっぱり演劇をやられていた経験はかなりダイレクトに反映されていると思うんですけど、具体的にここというのはありますか?」という問いに、武富さんが答えるくだりを引用しておきます。

武富 長ゼリフを言い切る強度を保たせることですかね。一巻の最後のほうとかはまだいろいろカットを割って保たせようとしてるんですけど、これは言ってみれば映画的手法ですよね。ただ、映画的にやると、せっかくの長いセリフのテンションが保ってくれない。蘊蓄ならいいんですけど、心情を理論的に述べるような場合、演劇的に舞台で突っ立って喋るほうが強度があるなという実感があって、なるべくそっちをやりたいと思ってました。そういうネームも出してたんですけど、染谷さんから、これだと退屈じゃない?と言われて映画的に直してたんですね。でも、だんだんこれでいいよねって押し通していった(笑)。喋ってる本人にがっつりフォーカスしてずっとセリフを喋らせるのは演劇を観てるときの観客の視点を応用してますね。そこを押さえながらも、言葉を聞いているひとのバストショットに喋っているひとのセリフがかぶってくるとかだけだと単調なので、ちょっとずつカメラを動かしたりして、読者が議論している二人の周りを回っているように思える演出をしているんです。


 「映画 鈴木先生」の「ほとんどのシーンはロングないしミディアム・ショットの長回しで撮られている」のは、こうした、原作の、映画的よりむしろ演劇的にやりたいという演出を生かそうという意図が表れたものではないかと。であれば、僕としては、そのことが原作の精神を理解できてない証拠にはならないばかりか、むしろその逆なのではという気がします。


 さて、いかがでしょうか。町山さんの説と、ミヤモトの説、どちらに説得力があるかは、みなさんが実際に映画を劇場の大きなスクリーンでご覧になって初めて検証できることです。
 まだ探していただければいろんなところで上映は続いています。町山さん評をうのみにせず、ぜひご自身の目で、確かめてみてください。それこそが最も「鈴木先生」的な精神の実践だと思います。