宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

大叔父の葬儀

【22日の0時台に書いています】


 火曜日のお昼前に母からメールがあり、その日の朝、母の叔父(正確には母の叔母の夫)が亡くなったと知らされました。木曜にお通夜、金曜に告別式があり、木曜に家族で東京を出て、両方に参列し、今日の夕方、また家族で東京に戻りました。


 母の両親はいずれも早くに亡くなっています。母の父は、母が生まれる前に、母の母も、母が小学校4年生の時に亡くなっています。詳しいことは控えますが、その後、一緒に暮らしていたわけではないものの、残された母と兄二人にとって、一番頼りにしていた親せきが、この、母の叔母夫婦でした。
 僕からすると大叔母、大叔父にあたる二人は、僕にとっても母方の祖父母のような存在でした。バスで20分ほどのところに住んでいたので、小さい頃は、月に何度も、週末、母と(弟が生まれてからはもちろん弟もいっしょに)泊りに行っていました。住んでいた地区の地名から、しんじょのおっちゃん、おばちゃんと言って、自分にとっては、特別親しい親せきです。
 今は、そのころより少し変わっているのですが、おっちゃんの家の結構広い庭には、柿の木のほか、たくさんの木や植物があって、柿は毎年軒先で干し柿にしていました。離れになってるお風呂もその庭にあって、五右衛門風呂でした。
 庭の周囲にめぐらされた石組の排水溝には、その側壁に積んだ石の隙間にたくさんカニが住んでいます。今でも。足音がするとしゅっと引っ込むのですが、こちらがじいっと待っていると、そおっと出て来て、こちらがちょっと動くとまた引っ込ます。
 その庭で、一人、ぼおっとカニを見ていたり、落ちた柿の実とたくさん生えてるアロエを、ままごと用のお椀で混ぜたりして、一晩置いとくとゼリーになっててびっくりしたり、庭から100メートルくらい先にある国道を走るブーブー(車)を見たり、そういう時間をたくさん過ごしました。どれが、自分が何歳の時のどういう時の記憶か判然としないような、漠然とした幼少期の穏やかな原風景のようなものは、ほとんどがこの、しんじょのおっちゃん、おばちゃんの家の記憶だったりします。


 明るくて勝ち気で言いたい放題言うけど、カラッとしているおばちゃんと、とにかく穏やか、温厚で、あまり口数は多くないけど、庭の手入れや日曜大工、子供の遊びの相手、すぐにささっと何でもやってしまうおっちゃんは、子供心にもよいバランスの夫婦に見えました。
 おっちゃんは、僕が子供のころ、すでに校長先生になっていましたが、ずっと小学校の先生をしていて、若いころは、子供たちのために、当時人気だった「怪傑ハリマオ」の主題歌を楽譜に起こして、音楽の時間に合唱させたり、授業の工夫に熱心で、誰からも慕われる先生だったようです。
 92歳で亡くなったので、1920年生まれだと思うのですが、戦時中、教師になって最初に赴任したのは、日本統治下の台湾の小学校で、「皇民化運動」が進められていた時期のことですが、そこでも慕われていたらしく、僕が高校生か大学生の頃に、台湾時代の教え子たちから、同窓会をするからと招待され、夫婦ともども大変な歓迎を受けたりしていました。
 こうしたことが、どれくらい一般的にありうることなのかはわかりません。でもおっちゃんの人柄なら、ありうることだなとは感じます。僕は大学院に入ってから戦時中のことを勉強するようになり、また当時の教育についても、興味を持つようになったので、おっちゃんの台湾時代のことには、かなり興味があるのですが、家族にも全くと言っていいほど、そのころのことは語らなかったようなので、今となっては、熱帯の高雄の小学校の教壇に立つ、若き日のおっちゃんの姿をうっすらと想像することしかできません。


 小学校を定年退職した後も、自分の孫たちとの遊びには、淡々と(ほんとに穏やかな人なので、淡々としか言えないのですが)対応し、ファミコンなどのゲームにも普通に適応し、ウィンドウズ95が出た後はパソコンを購入し、大学生になった孫とメールのやり取りをし、80歳を過ぎても、タケノコが取れたと言っては、バイクでうちの実家に持ってきたり、台風の前には、屋根に上って備えをし、と、僕が小さいころと全然変わらないたたずまいで、何でもこなすおっちゃんでした。
 僕らが結婚して、子供ができた後は、帰省するたびに遊びに行っていたんですが、バケツにカニを何匹が捕まえておいて、子供たちに見せてくれたり、時々送る子供たちの写真を、ちゃんとウチの子供たち専用のアルバムを作って整理してくれていたり、子供たち宛てに、いかにも小学校の先生らしい、分かち書きの文章で手紙をくれたりしていました。
 何となく、おっちゃんは100歳くらいまで生きててくれるんじゃないかという気がしていたんですが、心臓に持病があり、今年の4月くらいから入院していたので、少し覚悟はしていました。とりあえず、今年も8月の上旬に帰省するつもりだったので、お見舞いに行かないとと思っていた矢先の訃報でした。


 朝、病室のベッドで朝食を平らげた後、食器を下げに来た看護師さんが気付いた時には、もう、眠るように息を引き取っていたそうです。お通夜と告別式で見た死に顔も、本当に穏やかでした。
 長男と次男もすっかりなついていたので、お通夜もお葬式も、おとなしくずっと座っていて、式場に向かう車の中では、生き返ってほしいねえ、などと話していました。出棺の前に、親族で棺に花を詰める時にも、彼らなりに心を込めて花を置いてあげているようでした。棺の蓋が閉まる前もずっと顔の近くに立って、おばちゃんに寄り添って顔を見つめていました。もちろん、次男の方はまだ十分事態が飲み込めておらず、興味の方が先に立ったような感じではありましたが、亡くなった人の顔をじっと見る経験を小さいころをにしておくのは、こういう形でなら悪くないように思います。
 お通夜の後も、告別式の後も、親族での食事があったんですが、そこでは空気など読まない三男のごきげんさんぶりが、場を和ませてくれましたし、ウチの子たちがいることを、おばちゃんも喜んでくれているようだったので、学期末の大事な会議などもある中、仕事を休ませてもらって駆けつけてよかったと思いました。
 僕自身、おっちゃんが亡くなった時に、参列できないと辛いなと思っていたので、よかったです。
 まあでも、今度帰省した時、しんじょの家に行った時、あー、おっちゃんいないんだなー、っていうのでじわっと来るんだろうなとは思います。それを思うと、さみしくなるので、あまり考えないようにしますが。