宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ―マンガとマンガ映画』のこと

 もうだいぶ前に出てたのに、なかなか読む時間が取れなかった秋田孝宏さんの『「コマ」から「フィルム」へ―マンガとマンガ映画』(NTT出版)を、ようやく先日の大阪滞在中に読むことができました。
 これはねえ、名著ですよ、名著。こういう本の良さって意外と理解されにくかったりするのかもしれませんけど、名著ですよ、名著。
 そんなわけで、さっそくご紹介したいと思います。なんにも考えずに書いてたらやたら長くなってしまったので、今日と明日の2回にわけることにしようかとも思いましたが、やっぱりいっぺんに載せてしまいます。では、参ります。

「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画

「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画

 内容は、前半と後半に分かれます。前半は、マンガと映画、そしてマンガ映画(この「マンガ映画」という概念については後で触れます)が、それぞれのジャンル成立期にいかに密接な関係にあったかの概説。後半は、マンガとマンガ映画(そしてすこし映画も)のメディアとしての特徴を、主にその時間の表現の仕方を中心に、両者を比較しながら、論じていきます。前半が、マンガとマンガ映画の相互交流についての歴史的なアプローチ、後半が、両者の異同についての原理論的なアプローチと言ってもいいでしょう。したがって、決して、「コマ(=マンガ)」から「フィルム(=マンガ映画)」へ、という一方通行の話ではなく、またそのタイトルから想像されるような、あれこれのマンガ作品がこんなふうにアニメ化されました的な話に終始するものではありません。その意味で、この本の唯一の難点は、このタイトルかもしれません。
 言葉の最良の意味で「教科書的」な本です。マンガにもアニメーションにも同じ程度に関心がある、という人はたくさんいるはずで、両者の関係と異同について、歴史的かつ原理的に、しかも入門者にもわかりやすくまとめられた本があれば読みたい、という人もたくさんいるはずだと思うのですが、実のところ、そうしたニーズに応えるものは今までなかったわけです。そこがまず、この本の画期的な点でしょう。
 特に前半は、踏み込もうと思えばいくらでも踏み込んで論じられる話題が満載なわけですが、とにかく過不足なく情報を整理し、バランスよく、全体像を概観していて、入門者にとっては実にありがたい書き方になっています。最新の研究動向に照らすと疑問符を付けたくなる部分もありますが、「常識」といえる水準の知見をまず網羅することが優先されています。欧米の百科事典の大項目の記述を見るようです。
 また、文章も、前半後半問わず、非常に明解で読みやすいです。余計な修辞は全くと言っていいほどなく、ほぼ無色透明と言っていい文体で書かれています。これも、よく考えればかなり画期的なことです。マンガやアニメを論じることは、特にそれを「売文業」として成り立たせることは、どうしても、ある種のケレン味を含んだ「独自の文体」を書き手にまとわせがちです。しょうがないといえばしょうがないのですが、こうした内容、こうした形式の書物には、そうした文章自体の「味」みたいなものは、むしろ余計だったりするわけで、可能な限り多くの人にとって「好き嫌い」の起きない、誰が読んでも同じ理解に到達できるような文章が望ましいわけです。その意味でこの本の文体は、この本にとってはベストなものだと思いますし、今、マンガ論の世界にこういう文章が書ける人がいるかって言うと、僕はちょっと頭に浮かびません。アニメ論だと津堅信之さんがまさにそうなわけですけど。残念ながら誤植が多少目立ちますが、きわめて単純な、それこそ誰が見ても誤植だとわかる類のものばかりなので、内容の理解に影響を及ぼすものではないでしょう。
 ちょっとどんな文章か見てみましょうか。副題にもある「マンガ映画」の定義も含めて、本書での用語法について述べたくだりです。

 アニメーションやマンガのことを表す言葉はいくつかある。日常生活には支障がなくとも、このような本では混乱を引き起こす恐れがあるので、本論に入る前に少し整理しておこう。
 まずアニメーションに関してであるが、「アニメ」という言葉は「アニメーション」の略語であることはご存知であると思う。だから普段私たちは「アニメーション」という単語の意味そのままで「アニメ」という言葉を使っている。しかし近年、海外のマニアの間で、すこしぎくしゃくした動きでありながら、魅力的なストーリーの日本製アニメーションのことを「アニメ」と呼ぶ例が増えてきている(多くはTVアニメのことである)。このような作品は、実は『鉄腕アトム』のテレビアニメが放送されて以降、その影響を受けて日本で発達してきたアニメーションの形式の一つで、現在の日本製アニメーションの大多数を占めている。ここで考え直してみると、このような日本独特のアニメーションを指し示す言葉が日本語に存在するだろうか。実は適当なものが見当たらないのである。そこで、海外のマニアに習って「アニメ」という言葉をこれにあてようと思う。また、最も一般的な絵を動かしているアニメーション、英語でいうanimated cartoonのことを指し示す場合には、古くから用いられている「マンガ映画」が最もふさわしいだろう。そして「アニメーション」という言葉は、場合によっては「アニメーション映画」という場合もあるが、絵だけでなく、人形や粘土やその他さまざまな物を動かすことができるアニメーション全体を総称する言葉として用いようと思う。(p.11)

 見事ですね。さらっと書かれてますが、実によく考えられたカテゴリー設定と用語法だと思います。「実は適当なものが見当たらないのである。」とくれば、そこに「マンガ映画」を当てるのかな、と思いますよね。でも、そこは「アニメ」にしておいて、「animated cartoon」に当たる言葉として「マンガ映画」を持ってきます。この本の射程は、日本のマンガと日本の「アニメ」の比較にとどまりませんから、どうしても「アニメ」だけでは足りないわけで、「animated cartoon」に当たるカテゴリーが必要なわけです。で、それを、「マンガ映画」と。
 文章としても、一文一文が極力短く、構文的にもシンプルなものになっていて、しかも、論理的に非常に明解です。こういう文章を書き写していると、なんだかうっとりしてきてしまいます。しませんか?する人は多分、学者に向いてます。ま、僕のような半端者は、書き写してるとうっとりする、という程度で、自分ではなかなかここまでの文章は書けないんですが。
 やたら文章にこだわってますが、なんでかっていうと、さきほどふれたように、マンガ論とかアニメ論の世界では「独自の文体」が当たり前になっているために、津堅さんや秋田さんのような文章で書かれたものが、単に「つまらない」とか「文章が下手」という受け止められ方をする傾向があるように感じているからです。でもね、そいつはちょっと違うんですよ、ということです。みずからのスタイルの「独自性」を極力消去するスタイルの美学、っちゅうもんが、存在しうるんだってことなんです。

 で、さらに内容についての感想をば。
 前半はもう、「マンガ映画」の専門家といえるレベルではないのに講義で扱う必要がある立場の人間としては、本当にありがたいありがたいという感じです。まったく知らなかった、っていう話はさすがにあんまりないわけですが、こういうふうにまとめてくれてることがほんとにありがたいです。
 それから後半は、単にマンガとマンガ映画、それぞれのメディアとしての特徴を基本的な部分で説明したというにとどまらず、かなり踏み込んだ議論がなされています。この辺は、漫棚通信ブログ版のレビュー(8月10日付けのエントリ)でもふれられているように、核になっているのは、「時間」の問題です。漫画とマンガ映画を比較した時の最大の違いは、それを鑑賞・受容する「時間」を決定する権利が、最終的に作り手にあるか受け手にあるか、という点です。「音」が出るかどうかというのもあるじゃないかと思われるかもしれませんが、この本でもふれられているように、「音」はまさに時間的な存在です。音が付随してしまっていれば、好きなシーンを延々と眺めている、などということはできません。主人公が名台詞を吐くシーンもその名台詞の発声が終わってしまえば終わってしまうわけです。ビデオで一時停止すれば音は出なくなってしまいますし、繰り返し巻戻して見てもそれはあくまで繰り返しに過ぎません。読むのにかける時間の長さを、読み手が自分で好きに伸縮させられるというのが、書物としてのマンガの大きな特徴です。
 そして、紙面を、さまざまな大きさ、さまざまな形のコマに分割することで、時間を表現するというマンガの形式は、あるコマがどういう大きさどういう形で紙面のどこに配置されているかにまで意味があり、その点で、一般的な文章表現とも異なる「二次元的」な性格を持っています。例えば小説なら、最初に出た版と文庫本版とでは、全体の頁数、1頁あたりの行数・字数が違うために、ある一文がページの前の方に来たり後ろの方に来たりといったことが起こりえますが、それはそれでかまわないということになっているわけです。でも、マンガはそういうわけにはいきません。二次元平面をどのように分割するか、ということにきわめて重要な意味があるわけです。
 作り手は、このコマ割りにきわめて多くの労力を費やします。自分の思い通りの「時間」を作れるかどうか、読み手の読みの「時間」を、どこまで自分の思い通りにコントロールできるかは、かなりの部分、このコマ割りによるからです。
 この、コマ割りを中心とした時間のコントロールについては、夏目房之介さんの仕事でも、かなり多くの、踏み込んだ議論がなされています。ただ、夏目さんの仕事の場合、重点はあくまで、「作り手」がどう「コントロール」するか、にあります。夏目さんが得意とする「視線誘導」の議論はまさにその典型です。夏目さんはもちろん、視線をどう運ぶかは最終的には読者一人一人が(多くの場合無意識のうちに)決めるものであるということがわかっているからこそ、それを作家がどうコントロールしようと苦心しているかに関心を向けるわけですが、これこれの作家は視線誘導が「うまい」とか「うまくない」といった話になっていくと、どこかで、作者が自分の思い通りに読者をコントロールできる作品こそが「優れた」作品であり、作者に「誘導」されるがままになれることこそがマンガを読む快楽であるかのような、そういうマンガ観へと傾いていきかねないと思うのです(夏目さんがそうだって言うんじゃないですよ、夏目読者がそう「誘導」されかねないって可能性の話です)。
 この点で、秋田さんの論じ方は、かなり対照的です。本書で適切に参照されているように、石子順造が先駆的に指摘し、加藤幹郎が、数は少ないけれど重要ないくつかのマンガ論(それらは『愛と偶然の修辞学』

愛と偶然の修辞学

愛と偶然の修辞学

に収められています)で「愛の時間」という言葉で考えようとした、読み手の側がマンガを読む過程の問題に、記述の力点があります。

 マンガは作品を受けとった読者が、マンガ家が配置したコマの位置、形、大きさや物語の進み具合い、作品そのものの持つ雰囲気など作品を取り巻くさまざまな情報と自分の好み、感情などを参考にしつつ、一コマの中で継続する時間と二つ以上のコマの間で流れる時間を決定しながら読んでいく。マンガのコマ割り、あるいはコマ構造のうえに流れる時間は、最終的には読者によって完成されるのである。(p.210)

 マンガが、「読者の積極的鑑賞による作品世界への参加を要求するメディア」であることにこそ、そして「マンガ作品は読者の数だけ、正確にいえば読まれる回数だけの作品世界を作り出す可能性を秘めているのだ」というその可能性にこそ、ほかならぬマンガを享受することの快楽を見出すこと。作り手の「誘導」(それももちろん、「愛」の表現にほかなりません)に、受け手がどのような「愛」をもって応えるか。その関係のありよう、その駆け引きの総体、「映画風にいうとマンガ家により「空間・時間のカッティング」が行なわれ、それを読者が「空間・時間のモンタージュ」する」という共同作業によって、いわばその都度読者一人一人にとっての「作品」が生成していくその過程を、記述すること。ゆっくりとゆっくりと、「言われてみれば当たり前」のことを、具体的な作品例の丁寧な「読み」を通じて論じていく第9章と第10章が実践しているのは、そういうことです。ここんとこは、きわめて平易に書かれているのに、読み応えがあり、知的な興奮を味わわせてくれます。
 この、「時間」の問題のように、作り手がコントロールしようとしてもしきれない部分に、マンガというメディアの「面白さ」を見出していこうとする姿勢、そして、「コマ割り」をその手がかりにしている点で、この『「コマ」から「フィルム」へ』と、伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

は、非常に深いレベルで共振しあっています。そんなわけで、次は伊藤さんの本についてもご紹介せねばなりませんが、そちらはしばしお待ちを。
 あ、あともう一つ。この本、先行研究の引用の仕方も見事です。本当に必要なところに、本当に適切な仕方で、実にさりげなく、その人の仕事の最良の部分が引用されています。「みんな○○なんてろくなもんじゃないと思ってるかも知んないけど、実はこんないいことも言ってんだぜー」みたいなアピールを、僕なんかしたくてしたくて仕方なくなりそうな引用でも(副田義也のとかね)、一切してません。この辺も、秋田さんのかっこいいところというか、人徳を感じさせます。見習わなければなりません。
 著者の秋田さんは、早稲田大学の大学院修士課程を出られた後、川崎市市民ミュージアムのマンガ部門の臨時職員として(といってももう長年お勤めですが)資料整理のお仕事をされるかたわら、専門学校や大学で非常勤講師としてマンガ・アニメに関する授業をなさっています。日本マンガ学会の理事でもあり、学会のサイト運営にも協力されており、また、マンガ学会設立以前から続いている「ほぼ毎月、都内のどこかで開催している仲間内の研究会」(本書の「あとがき」での表現)の世話人でもあり、はたまたご自身でマンガに関するデータベースサイトも運営されています。「アカデミズム」と「在野」のちょうど間に立って、ここ10年近くの間に深く静かに進行してきた、そしてここ数年大きな波としてあらわになってきた、マンガ論の新しい動向を、縁の下で支えてこられた方です。その秋田さんが、まさにその謙虚さと知的誠実性そのままの書物を、世に問われたことを、同じ研究会に参加させてもらっていた人間のひとりとして、心から祝福したいと思います。もちろん、ここで述べた僕の評価は、決していわゆる「仲間ぼめ」ではありません。そんなんだったら、ほんとの意味での祝福になりませんから。
 そんなわけで、ほんとに名著です。必読。それでも定価が高いと思われる方は、最寄の公共図書館にリクエストしていただければと思います。