「新次元 マンガ表現の現在」
大変よかったです。
今年は横山裕一展とこれがあったことで、マンガ展の歴史にとっては重要な一年になると思います。
水戸芸術館のホームページに掲載された展覧会の趣旨には次のようにあります。
本展は、2000年以降に話題になった9作品に焦点を当て、戦後日本のストーリーマンガの達成をふまえながら成熟しているマンガ表現の現在を紹介するものです。従来のマンガの展覧会は原画展示が中心でしたが、本展ではマンガ家や編集者の意見を取り入れながら、それぞれの作品世界を空間の中で立体的に展開することを試みています。
本展では上記のような時代を背景に、マンガ家は時代の空気をどのように表現しているのか、錯綜した時間や空間軸をどのように描いているのかなど、二次元のマンガ表現における多種多様な挑戦や、そこに広がる問題を三次元の空間に展開し、新しいマンガ体験の場の中でマンガの可能性や魅力を探ります。
http://www.arttowermito.or.jp/art/modules/tinyd2/index.php?id=1
で、展示作品と展示形態は以下の通り。
浅野いにお『ソラニン』(小学館、2005-2006)
作家が撮影した風景写真や『ソラニン』中の画像を用いた映像作品などによるインスタレーション。
安野モヨコ『シュガシュガルーン』(講談社、2003-2007)
立体コラージュ作品による空間インスタレーションと版画作品の展示。
五十嵐大介『海獣の子供』(小学館、2006-)
海中世界のインスタレーションと原画展示。
今日マチ子『センネン画報』(太田出版、2008-)
作品世界をイメージした空間に原画の展示。
くらもちふさこ『駅から5分』(集英社、2007-)
作中の錯綜した時間や空間軸を立体的に表した迷路的展示。
二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(講談社、2001-2010)
下絵原画やカラーイラストを作中で登場するクラシック音楽が流れる空間で展示。
ハロルド作石『BECK』(講談社、1999-2008)
ライブハウスに見立てた空間の中で、マンガの演奏シーンだけによるBECKの無音ライブを上映。
松本大洋『ナンバーファイブ』(小学館、2000-2005)
巨大イラストによる空間と原画展示。
若木民喜『神のみぞ知るセカイ』(小学館、2008-)
マンガやキャラクターにおけるリアリティといった作品の背後にある作家の問題意識をインスタレーションで表現。
実際の展示順はこの順じゃなかったですが、もうほぼ説明としては付け加えることはないです。
で、横山展やこの「新次元」展の何が新しいかってことなんですけど、問題は、「作品世界を空間の中で立体的に展開する」のとこです。
例えば去年の高橋留美子展でも、今やってる「ゲゲゲ」展でもそうなんですが、作品に出てくる一場面を等身大に引き伸ばして壁一面に展開するとか、作品に出てくる建物や部屋を実物大で再現して会場に置くとかいう手法は、すでに前からあるわけです。
こういうのをざっくり「世界観の再現」とかっていうふうに、僕自身も言ってきたわけですが、これって、完成度が上がるほど、テーマパークと何が違うんだろうって気がしてくるのも事実なんですよね。
ファンには楽しいのは間違いないし、自分が知っている作品世界に、三次元空間で改めてたっぷり浸るのは、それはそれで本を読むだけでないマンガ体験ではあると思うんですが、入り口と出口がほとんど一緒っていうか、新しい発見がないっていうか、美術館・博物館でキュレーターが介在してやっている意味は何だろうかという疑問が出てくるわけです。
正直、「新次元」展も、どれがとは言いませんが、いくつかの作品のコーナーについては、これって、すごく完成度は高いけど、テーマパーク系だよなー、ってのもありました。
でもその一方で、「センネン画報」のとこと「駅から5分」のとこなんかは、はっきりと、作品世界の「再現」にとどまらない、キュレーターによるその作品のあり方や構造についての解釈・読みの「表現」になっていたと思います。
「センネン画報」の場合は、作品の原画が並んでいる空間が、白い布で区切られていて、壁に描かれた(正確には壁に描いたように見えるシールが貼ってあるんですが)絵が、ゆるやかに一連のお話を形作っています。
つまり、空間全体の中に、原画の一枚一枚が形作る小さな時間の断片と、壁の大きな絵が形作る大きな時間の断片の二つが流れていて、重層的な時間の表現になってるんですが、それって、「センネン画報」っていう作品のあり方とか、今日マチ子の表現のあり方ってこうだよね、っていうキュレーターの踏み込んだ理解・解釈あっての構成だと思うわけです。しかも、そこに明らかに作家自身の、この展覧会のための新たな協力があって、ここで初めて提示される表現になっていると。
「駅から5分」の場合はもっとそうで、舞台になっている花染町のモデルは東京の駒込なわけですから、それこそ作品世界の立体的再現で行けば簡単に分かりやすく楽しい展示空間は作れる。
しかし、その手法は取らずに、同じエピソードを何度も違う人物の視点から語りなおしていくこの作品の複雑な構造そのものを空間的に可視化するために、同じエピソードを語る別の回のコマを、一コマ一コマ切って横に並べて壁に貼って行っています。観客は壁に沿って、同じエピソードを語る視点が次第に増えて行く様子を時系列に沿って見て行くことになります。しかも壁が迷路状になっていることで、この作品のまるで迷路のような構造が体感されると。
ここまで来ると、もう単なる「再現」じゃなくて、この作品は実はこうなっている、というキュレーターやコラボレーションするアーティストの読み・解釈の「表現」の域に入っていて、観客にとって、ちゃんと新たな発見があって、入り口と出口が別のレベルにある展示になってると思うわけです。横山裕一展もそうだったと思います。
というわけで、我ながらちんたら長いエントリになってしまいましたが、横山展の金澤韻さんといい、この展覧会の高橋瑞木さんといい、ちゃんとキュレーターの表現にもなっているマンガ展を、こういうレベルで実現できる人たちが活躍するようになったのは、ほんとに頼もしいし、マンガ展の可能性がどんどん広がっていくことにつながるよなー、とうれしくなる展覧会でした。
韓国にも巡回するそうですが、向こうでの反響も知りたいですね。