宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

竹内一郎サントリー学芸賞受賞問題の〈起源〉・承前

 『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』は、著者の「あとがき」によれば、「日下(翠)さんの助言と励ましによって成った学位論文を平易に書き改めたもの」であり、「当初のプランから本文は約三分の二、図版は約二〇分の一に削ってある」と言われます。そしてその後に竹内氏はこう付け加えています。「だが、研究の精神は削っていない」。
 前回のエントリでは、元になった学位論文もまた、博士論文の水準にはほど遠いものであるという前提で話を進めてしまいましたが、もし『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』と元の学位論文の間にかなりの違いがあるとすれば、出版されたヴァージョンがいかにひどいものであれ、博士論文の方はそれほどでもなかったのでは、という疑問を持たれた方もおられるのではないかと思います。今回は、その点について検証していきたいと思います。


 この本を通読して上記の「あとがき」に接したとき、私が抱いた淡い期待は、この本の様々な問題点の、少なくともいくつかは、原論文を「平易に書き改め」る過程で生じたものではないか、というものでした。特に、およそ学術論文にふさわしからざる文体で書かれた部分が、この著書には多く含まれるのですが、それらは、マンガ原作者である著者のサービス精神のなせる業であり、結果としてこの著書の記述をより粗雑なものに見せることになったのではないか、と考えたのでした。国会図書館の関西館で、原論文を閲覧しようと思ったのは、その点を確認したかったからでした。以下、『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』を「選書メチエ版」、その元になった学位論文『ストーリーマンガの誕生―手塚治虫の表現技法に関する実証研究−』(乙第7805号 博士(比較社会文化) 2005.3.)を「原論文」として、両者の比較検討の結果を述べていきたいと思います。


 限られた時間ではありましたが、選書メチエ版を館内に持ち込み、原論文と照らし合わせて見てわかったのは、後で詳しく検討する先行研究への言及を除いて、両者の間に有意味な違いは全くない、ということでした。
 まず、論文全体の構成も、その先行研究への言及が削除されていることを除けば、全く同じです(原論文の1章から3章が選書メチエ版第1章の1、2、3に、同じく原論文4章から6章が第2章の1、2、3に、原論文7章、8章が第3章の1、2に、原論文9章、10章、結章が第4章の1、2、3に、それぞれ相当します)。
 また、「平易に書き改めた」結果と思われた、くだけた文体や、読者の印象を不当に操作しようするものとみなされても仕方のない、研究過程のドラマチックな再現などのくだりも、原論文に全く同じ形で存在していました。例えば、以下のような部分です。

 私は、手塚の「映画的技法」が、おおむね成熟してきたと思われるデビュー以降五年分の作品を、一コマずつ検証してみた。もちろん、すべてというわけにはいかない。雑誌に掲載されたものの中には、今私の手に入らないものもある。現在、『手塚治虫漫画全集』(講談社)で読めるもののすべてである。表8が、私が技法を検証した作品群である。
 私は、一コマずつ付けあわせしながら、驚きを禁じえなかった。呆然としたといってもよい。手塚は、間違いなく巨人であった。天才であった。(選書メチエ版pp.98-99)

 比較すると、原論文では「概ね」だったのが「おおむね」に、「全て」が「すべて」にと、二ヶ所漢字がひらがなに置き換えられ、読点も一つ増えています。その意味では選書メチエ版はわずかに「平易に書き改め」られていると言えなくもないのですが、その他は、『手塚治虫漫画大全集』と誤っていたのを直している以外、全く同じです(原論文ではp.83)。
 引用部の第2段落は、調査の結果の報告の前に、著者個人の感想と認識を何度も強調する形になっており、先ほど触れたように、学術論文にとって不要であるばかりか、読者の印象をあらかじめ操作しようとするものとも取られかねない、不適切な記述です。それが、原論文にも全く同じ形で存在しているわけです。
 当日、全文を一字一句照らし合わせていく時間はなく、複写には総頁数の半数を超えてはいけないという規則があるため、厳密なことは言えませんが、「ここはいくらなんでも原文は違う表現だろう」と思っていた個所はことごとく原論文のままでした。したがって、原論文に対して選書メチエ版は、分量こそ多少減っているものの、文体において両者の間に、特に「平易に書き改めた」と言えるほどの違いを認めることはできませんでした。また、分量も、「あとがき」によれば3分の2に減っているはずですが、それほど減っているとは思えませんでした。


 ただし、先に触れたように、原論文と選書メチエ版の間には、見過ごすことのできない重大な違いが一つあります。先行研究を検討する議論が、原論文の「序章」の中には存在することです。主に「紙屋研究所」で批判されているように、選書メチエ版の、マンガ論に通じた読者にとって最も目立つ問題点は、主な先行研究をことごとく無視、または軽視していることでした。選書メチエ版「はじめに」の末尾付近には次のようにあります。

 手塚は学際的教養の巨人である。マンガに、アニメ、映画、SFを導入したことは夙に知られている。ということは、マンガだけわかっていても、手塚の全体像には迫れないのではないか、と思い始めたのである。私には、マンガ研究家によるマンガ論が物足りなかった。マンガしか知らない人が多いのである。学際的教養が感じられない。加えて、マンガ制作の現場を知らない。マンガ家やマンガ編集者など、現場の人間から見ると、見当外れのマンガ評論がたくさんある。
 結果として、マンガ評論家の肩書きを持つ人はたくさんいるが、正面きった「石ノ森章太郎論」や「ちばてつや論」が出てこないのである。週刊誌のコラムは書けても、作家論、技法にも論究されたマンガ表現論(文芸評論では「文体論」にあたる)を包括的に論じる力を持った人がほとんどいないのである。それが、残念だった。
 幸い私は、演劇、マンガに加えて、舞台作品がビデオ化されたり、マンガがアニメ化されたりしたので、映像やアニメのことも少しはわかる。教養では手塚に遠く及ばないが、私の流儀で手塚がマンガに果たした役割の全体像に迫ろうとしたのが本書である。(選書メチエ版p.8)

 「物足りなかった」という「マンガ研究家によるマンガ論」が、例えば誰の何という著作なのか、具体的には一つも明らかにせず、したがって一つも根拠を示さず「学際的教養が感じられない」と自分の印象のみを述べます。「マンガ表現論」という、夏目房之介という一人の書き手と特権的に結びついた用語を持ち出しながら、その名には触れず、「週刊誌のコラムは書けても」などという当てこすりをちりばめつつ、マンガ表現論を「包括的に論じる力を持った人がほとんどいないのである」と述べます。
 マンガしか知らない人が「多い」と言い、見当外れのマンガ評論が「たくさん」あると言い、包括的に論じる力を持った人が「ほとんど」いないと言うのですが、たとえ例外的な少なさであっても、「マンガしか知らない」のではない人が一人でもおり、「見当外れ」でないマンガ評論が一つでもあり、「包括的に論じる力を持った人」が一人でもいるのであれば、大多数の「物足りな」いものに言及するより前に、まずその例外的な達成を具体的に取り上げ、研究史上の位置づけを行ない、自らの研究ではその最良の到達点をこそ乗り越えていこうとするのが、研究というものでしょう。
 何度も言うようですが、この著作の問題点は、単にマンガ論の蓄積に対する勉強不足にあるわけではない。むしろ上の記述からうかがえるように、おそらく、評価すべき達成が存在することに気付いていながら、それを改めて視界から排除してしまう身振りの、知的な不誠実さこそが問題なのであり、マンガ論の蓄積に全く通じていなくとも、この著作そのものを注意深く読みさえすればいたるところに発見することのできるこの不誠実さを、選書メチエの編集者とサントリー学芸賞の選考委員が、ことごとく見逃してしまったらしきことこそが問題なのです。


 では、原論文に存在する先行研究への言及は、十分な知的誠実性を示しているのでしょうか。残念ながら、答えは否です。
 原論文の「序章」は、「1、日本が生んだストーリーテラー」、「2、手塚治虫研究の先駆者たち」、「3、学術研究の中の手塚治虫」の3節からなります。このうち「1」は選書メチエ版の「はじめに」のなかにほぼ吸収されていますが、「2」と「3」は全く選書メチエ版には含まれていません。と言っても分量的には原論文で6ページ分です。1ページ40字×36行になっているので、原稿用紙換算でわずか20枚強なのですが、それでも、そのわずかな先行研究への言及さえ、選書メチエ版ではばっさりと削除して、上記のような「ほとんどない」という言い方に置き換えられてしまっているわけで、そのこと自体、「研究の精神は削っていない」という著者の言葉を疑わせるに十分な事実でしょう。この点については、それを見過ごした選書メチエ版の編集者の責任も強く問われてしかるべきです。
 さて、その削除されることになってしまった部分で、著者はどのような先行研究にどのような言及をしているのでしょうか。「2」は竹内オサム氏と夏目房之介氏の仕事の検討に当てられているのですが、まずは、分量的に少なく、付け足しめいた「3」から先に触れておきます。その節の冒頭で、著者は、次のように述べます。

 これまでマンガ研究は、エッセイ風に語られることが多かった。「マンガ史」を除いては、学問ではなかったから、信頼できる研究書がないのである。マンガ表現の技法に関しては、研究書は一冊もなかったといっていいだろう。だから、私は手探りで、「手塚のマンガ」と「手塚の言葉」を付け合せながら、ストーリーマンガ誕生の謎を考えていったのである。(原論文p.6)

 「「マンガ史」を除いては、学問ではなかった」という断定にはまたしても根拠が示されないのですが、もういちいちこだわりません。ここで確認しておきたいのは、著者が、竹内オサム氏の仕事も夏目房之介氏の仕事も、「学術研究」に分類されるべき「研究書」とはみなしていないということです。彼らの仕事はあくまで「エッセイ風に語られ」た、「先駆者」のそれだというのが著者の判断です。では、「学術研究」として取り上げられるべきはどのようなものなのでしょうか。上の引用部に続けて著者は、「補足だが、学術論文で本研究と重なると思われるものは、以下の三論文である」として、その書誌情報を掲げます。

①榊原英城「現代ストーリーマンガの成立(1)〜(4)−手塚治虫の「文法」−」
 『岐阜経済大学論集』27巻1,2,4号、1993、29巻3号、1995。
高橋一郎手塚治虫と池田師範附属小学校:天才漫画家を育てた家庭・地域・学校」
 『大阪教育大学紀要.Ⅳ,教育科学』51巻1号、pp.11-23、2002。
木村洋二・増田のぞみ「マンガにおける荷表現重〔原文ママ。正しくは荷重表現〕−ページの『めくり効果とマンガの『文法』をめぐって』」〔カギカッコの位置の混乱も原文ママ〕『関西大学社会学部紀要』32巻2号,pp.205-251,2001

 なぜ、わずかにこの3点しか挙げられないのでしょうか。試みに、国立情報学研究所の論文情報ナビゲータ(http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiTop#)を使って、「手塚治虫」というキーワードで検索してみます。251件の記事・論文がヒットしますが、このうち大学の紀要に掲載されていることが明らかなのは、上の①と②だけです。続いて、「マンガ」と「文法」というキーワードを組み合わせて検索しますと、9件のヒットがありますが、この中で大学の紀要に掲載されているのは③と、著者の指導教官である日下翠氏の論文だけです。
 おそらく、このような手順で著者は文献検索を行い、上記の3点を挙げたものと思われます。要するに著者にとって、「学術研究」に分類されるべき論文とは大学の紀要に載ったもののことであり、また自らの研究において参照すべきではないかと考えられる先行研究とは、「手塚治虫」の語をタイトルに含む、または「マンガ」と「文法」の語の両方をタイトルに含むもののみ、というふうに考えられているのでしょう。
 この極めて限定された検索方法によって見つけられたわずか3点の論文を、しかし、著者は、①についてはごく簡単にその内容を紹介した上で「マンガ表現に関する叙述もなく、私の研究の先行研究と考える部分はない」と結論づけ、残る「②③に関しては」、一切内容の紹介もせずに、「私の研究と重なる部分はないと考える」と断定した後、次のように述べます。

 マンガ研究は、まだ未成熟な分野である。大学のマンガ学科は、マンガ家を育てる目的で設置されたものばかりで、教員は元マンガ家や元編集者が殆どである。マンガ研究者は基本的に在野にいると考えてよい。(原論文p.7)

 「まだ未成熟」とか「在野にいる」とか屋上屋を重ねる表現が目立ちますし、またしても「殆ど」が出て来ていますが、こういうことにもいちいちこだわっていられません。ならば、その「基本的に在野にいる」「マンガ研究者」の仕事を、著者はどのように評価しているのでしょうか。


 「2、手塚治虫研究の先駆者たち」では、竹内オサム氏の『手塚治虫論』と夏目房之介氏の『手塚治虫はどこにいる』と『手塚治虫の冒険』が取り上げられます。そう、取り上げているのです。引用しましょう。
  

 これまで手塚治虫研究に大きな成果を挙げているのは、竹内オサム氏と夏目房之介氏の二人である。二人の先学の成果を先にまとめてみる。マンガ研究の大きな流れが俯瞰できる。
 竹内オサム氏は『手塚治虫論』(平凡社、1992年)という優れた作家論をまとめている。
 竹内氏は、文芸評論家が作家論を書く作法で、手塚治虫という作家を論じている。手塚の、科学的知性や、エロティシズム、女性観、戦争観、などが核になっている。全十章立てで、九章までは、作家論に割かれている。
 最後の十章に、手塚の開拓したマンガ表現技法が論じられている。その論旨は次のようなものである。手塚はそのデビュー作『新宝島』(育英出版、1947年)で映画的手法を導入し、コマ割りや構図に革新性をもたらしたという定説がある。定説を作ってきたのは、主に、手塚の後輩マンガ家たちである。藤子不二雄や、石ノ森章太郎赤塚不二夫……。これに対し、呉智英(評論家)や真崎守(マンガ家)は、神話や虚構であったと反論している。つまり、手塚はそれほどまでに技法の革新者ではなかったのだ、と。竹内氏は、手塚が技法の革新者であったかどうか、では曖昧な立場をとる。

 稚拙な絵でありながら、連続するコマ展開のなかに、スピード感あふれる世界をくり広げて見せたのだ。(3)

 技法に関しては、専門家ではないから、突っ込んだ議論は避けている節がある。ただし、氏は手塚の考案した〈同一化技法〉が、傑出していると指摘している。読者の眼が、作中人物の眼と同化する技法である。これに関しては、私は5章の「映画の影響」で詳述しているが、手塚が導入した「膨大な数の映画的技法」の一つに過ぎない、と位置付けている。(原論文p.3)

 竹内オサム氏への言及はこれで全てです。「文芸評論家が作家論を書く作法で」とわざわざ述べるのは、自らの表現技法論との違いを言いたいのでしょう。伊藤剛氏が『テヅカ・イズ・デッド』の中で、異常なまでの誠実さでその論理をたどっている同一化技法をめぐる議論(竹内オサム氏は実に20年以上にわたってこの問題に拘泥しているわけです)に触れながら、「手塚が導入した「膨大な数の映画的技法」の一つに過ぎない」とし、「技法に関しては、専門家ではないから、突っ込んだ議論は避けている節がある」と片付けてしまいます。


 次に夏目房之介氏への言及が始まります。

 夏目房之介氏は、『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房、1992年)や『手塚治虫の冒険』(同、1995年)などで、手塚の創出したマンガ表現の革新性を主に論じている。二冊とも、手塚は、マンガ表現のどういう部分を新しくしたかを例示し、それに対して評論家的な論評を加えるというスタイルである。研究というより、エッセイに近い。自身も、その後出版した『マンガはなぜ面白いのか』(日本放送協会原文ママ〕、1997年)でこう書いている。

私などの売文業者は、いつもかぎられた時間の中で、要求されたテーマ、娯楽性などを満たしながら仕事をするが、それではまにあわない研究作業も山ほどある。ベースとなる資料整理や歴史的あとづけ作業などは、もうアカデミックな世界でないとやりきれない、ということもあるのだ。(4)

(原論文、pp.3-4)

 竹内一郎氏お得意の、作者の自己申告のうち、自分に都合のよい部分だけを取り出す立論です。ここでの夏目氏の叙述が、自らの達成のさらにその先へ行こうとするならば、という前提に立っての謙虚な限界の表明であって、単に自らの仕事が「研究というより、エッセイに近い」ことの表明などでないことは明らかです。この後もこの著者は、夏目氏の仕事は「エッセイ」に近いのだと繰り返すのですが、次のくだりを見ても、この著者に、およそまともな読解力が備わっていないことは明らかです。

 しかし、優れた成果であることは疑い得ない。夏目氏の「気付き」を順を追って紹介する。『手塚治虫はどこにいる』での、大きな指摘は次の通りである。
①手塚マンガへの宝塚、戦争の影響
②モブ(群集シーン)を多用したこと
③俗説でいわれる「コマの革命者」とはいえない。別の映像センスであること。
④コマの遊び
⑤流線、汗、煙などの「落書き記号」の表現を拡大したこと
⑥目玉による感情表現を始めたこと
⑦物語の「縦糸」が複数ある重層構造の物語をマンガに持ち込んだこと
⑧手塚は「丸っこい描線」を用い、マンガの世界を日常生活空間から離脱させ、それ自体として閉じた世界を作ろうとしたこと
⑨ディズニー・アニメの演出方法を導入したこと
⑩手塚は、自身が否定的だった劇画の表現を導入したこと
 エッセイを箇条書きで要約するのは、スマートな方法ではないが、その野暮はお許し願いたい。私の研究の「先行者」としての部分を抜き出したまでである。ただし、殆どは誰が最初に言い出したかは特定できない。手塚自身が語っているものも多いし、今ではマンガ愛好者の常識に近いものが殆どである。長らくマンガは「研究対象」ではなかったのだから、マンガ家やマンガ編集者、マンガファンが「こう描けば、こういう効果が得られるのでは」と語ってきたことを夏目氏がエッセイ風に「まとめた」という印象なのである。夏目氏の指摘で「斬新」と私が思うのは、⑥「目玉による感情表現」と⑧「丸っこい描線」である。⑦「縦糸の物語構造」に関しては、マンガ評論の観点からは新しいように見えるが、「物語つくり」の観点から見れば「基礎」のレベルである。
 次に『手塚治虫の冒険』から、上記の指摘と重ならないものを拾い出してみる。
⑪『来るべき世界』で、コマを「上から下」に読ませるのではなく「右から左」に読ませる工夫として矢印を付けて読者を誘導したこと
⑫文学・演劇の要素を持ち込もうとしたこと
⑬1970年ごろ、画像的な格好よさばかりを追求する劇画が台頭。手塚はその描法を真似たこと
 私の研究と重なる点は以上である。1970年以降は、描法・コマの実験共に手塚の独壇場ではなくなる。手塚は、表現技法に関して、むしろ若手マンガ家の後塵を拝する立場である。私の研究はマンガの〈誕生〉の謎に迫ることだから、70年以降はすでに成立したあとである。その後のことは、省かせていただく。(原論文、p.4)

 よくここまで、核心をはずした要約ができるものだと思いますが、『手塚どこ』を要約する際に、モブシーンの多用にどのような意味を夏目が見出そうとしているかは無視し、コマによる時間の重層化という極めて重要な論点を完全に言い落とし、キャラクターの自意識・内面の表現を単に「目玉による感情表現」と言ってしまうといった具合に、その議論を著しく矮小化しておきながら、「マンガ家やマンガ編集者、マンガファンが「こう描けば、こういう効果が得られるのでは」と語ってきたことを夏目氏がエッセイ風に「まとめた」という印象なのである」と述べるその手際は、ほとんど詐欺的であると言わなければなりません。
 こんなふうに、竹内一郎氏は、何が何でも夏目氏の仕事を「エッセイ」という枠の中に押し込めずにはいられないようなのですが、しかし、「エッセイを箇条書きで要約するのは、スマートな方法ではないが、その野暮はお許し願いたい」などという言い回しを平気で織り交ぜるこの文章こそ、言葉の最悪の意味で「エッセイ風」だと言うべきではないでしょうか。


 「私の研究と重なる点は以上である」と言いつつ、夏目氏への言及はこれにとどまりません。この後、さらに驚くべき議論が展開されます。

 実は、マンガ技法の研究に関しては、夏目氏の二冊で、止めを刺された感がある。夏目氏は、今はマンガ評論家だが、元はマンガ家である。マンガ家出身の評論家には、一般の人は「描き方」では歯が立たない。夏目氏の二冊が出て以来、表現技法に関する議論はパッタリ止まってしまった。
 しかし、実際は、夏目氏自身も自覚しておられるが、体系立てて語られたものではないのだ。あくまで、エッセイなのである。
 また、私の印象では、夏目氏は少し表現論を難しくし過ぎている嫌いがある。たとえば、マンガは映画的なカット割りををそのまま持ち込んだのではなく、マンガ独自のコマの展開が先にあり、それゆえに、映画的な効果を導入することができたのだ、と。

手塚の手法革新について、映画手法の模倣だといって、安易にわかったような気になっている俗流解釈があるんで、あえていっておきます。(5)

 元マンガ家の夏目氏に、こういわれると、部外者は言及しにくくなる。それで、マンガ表現技法に関する議論が止まってしまったのである。(原論文、pp.4-5)

 何ということでしょうか。マンガ原作者である自身のアドバンテージを主張する際には「マンガ制作の現場を知らない」、「マンガ家やマンガ編集者など、現場の人間から見ると、見当外れのマンガ評論がたくさんある」と言いながら、自分の先行者である夏目氏に対しては、氏のようなマンガ家がものを言うと「部外者は言及しにくくなる」とその抑圧性を指摘し、「夏目氏の二冊が出て以来、表現技法に関する議論はパッタリ止まってしまった」などと端的に誤っているとしか言えない事実認識を示し、挙句の果ては「夏目氏は少し表現論を難しくし過ぎている嫌いがある」と言うのです。その上でさらに著者は次のように続けます。

 実は、ヴィジュアルな工夫にいたるまでの、思考のプロセス(脳の活動)を言葉で解説しようとすれば、歯切れが悪くなる。夏目氏も、明確に説明はできていない。現代の医学では、脳はまだブラック・ボックスの状態である。この領域に持ち込まれたら、議論ができなくなるのである。
 私も、苛烈なマンガ制作の現場にいる人間である。私の実感で言うなら、マンガ家は「マンガ独自のコマ割りの技術」がないとはいえないが、映画的な技法を紙の上に再現する感覚でマンガを描くことができる。つまり、いくつかの思考のプロセスを経るとしても、マンガ家は「映画手法の模倣」のつもりで描いているのである。現在は、既にマンガ技法として定着しているから、模倣のつもりでも描けるのだ、という反論が出るかもしれない。映画的技法を最初に紙の上に再現した「先駆者」とは、プロセスが違うのだ、と。しかし私は、先駆者であっても、マンガ家は「イタズラ描き」の延長線上で映画的技法を紙の上に再現したのだと、考えている。
 従って、マンガ表現の技法に関する議論を、「夏目氏以前」に戻す必要がある。少なくとも、〈ストーリーマンガ誕生〉を論じるには、もう少し単純化しなければならない。(原論文、p.5)

 何故ここで唐突に脳の話が出てくるのかはよく分かりませんが、ともかく著者にとって、マンガの技法について分析・考察していく上では、「マンガ独自のコマ割りの技術」より、「映画手法の模倣」、「映画的技法を紙の上に再現」することの方が重要らしいということはわかります。だから、「マンガ表現の技法に関する議論」は、「「夏目氏以前」に戻す必要がある」というわけです。


 まだ続きます。

 とはいえ、私の研究は夏目房之介氏の著作に啓発された部分も多い。夏目氏のエッセイ集がなければ、本研究もなかったろう。
 夏目氏は、〈描線〉と〈コマ〉を徹底的に考えればマンガ表現の仕組みが解けるはずだ、と目論んだ。それは氏自身がマンガ家でもあるからだ。私の方法もそれに近い。だが、少しスタンスが異なる。私は、劇作家にしてマンガ原作者である。マンガの主体者ではあるが、演劇や映像の主体者でもあるため、マンガを対象化して捉える癖がある。
 私は、手塚治虫のマンガ技法を通して、ストーリーマンガが何故日本に生まれたのかを考えた。アニメでも映画でも演劇でも文学でもなく、マンガをマンガたらしめている要素は何なのか、という謎に迫ろうとした。夏目氏とはアプローチが異なっている。少なくとも、私はそう考えている。(原論文、pp.5-6)

 どうやら竹内氏は、同じ現場を知る人間であっても、マンガの現場しか知らない夏目氏には「マンガを対象化して捉える」ことができないと言いたいようです。しかし、それにしても、「アニメでも映画でも演劇でも文学でもなく、マンガをマンガたらしめている要素は何なのか、という謎に迫ろうとした」というその「アプローチ」と、「マンガ独自のコマの展開」を重視する夏目氏の「アプローチ」の一体どこが異なるのか、ここではさっぱり分かりません。竹内氏自身も不安なのか、「少なくとも、私はそう考えている」と述べています。そして当然のように、この後展開される本論のどこが「夏目房之介氏の著作に啓発された部分」なのかは一切述べられません。
 実際には夏目氏と竹内氏の違いは「アプローチ」の仕方ではなく、問題設定の仕方に見出すべきだと考えられます。夏目氏は、竹内氏のように、「ストーリーマンガが何故日本に(だけ)生まれたのか」などという、そもそも前提となる、「ストーリーマンガ」は「日本に(だけ)生まれた」という認識自体が怪しい問いを、立てたりはしていないからです。


 もう少し続きます。

 また、竹内、夏目両氏の興味は、「手塚とは一体何なのか」という問いに収斂されるといっていいかもしれない。手塚という〈本質〉に迫りたいという欲求である。本質論である以上、基本的に「手塚という一つの中心を持つ円」を想定し手塚論、マンガ表現論を語っていると思われる。
 私は、両氏とは異なった手法をとることにした。私は「ストーリーマンガの誕生」という観点から、「手塚」と「手塚を取り巻く環境」という「二つの中心を持つ円」を想定したのである。
 人間の形質は「遺伝」と「環境」の二つの相互作用によって決定される。どちらか一方だけで、人物を論じてもその形質には辿りつけない。遺伝と環境という「二つの中心を持つ円」を想定することで、人物の全体像が見えてくる。
 私はこういう理由で、「手塚」と「手塚を取り巻く環境」という「二つの中心を持つ円」を考え、両者の協力、反発、せめぎ合い、などの結果として「ストーリーマンガ」が誕生したと考えるのである。(原論文、p.6)

 自分自身で、夏目氏の「気付き」の一番目に「手塚マンガへの宝塚、戦争の影響」を挙げておきながら、これを、「手塚」と「手塚を取り巻く環境」の「協力、反発、せめぎ合い」を見ようとする試みだとは、気付かないようです。だいたい、「二つの中心を持つ円」って何でしょうか。それはもう「円」ではないでしょう。単に「二つの円」でいいではないですか。
 ともあれ、これに続けて唐突にみずからの「方法」を語ることで、ようやくこの節は終わりを迎えます。

 次に、研究の方法だが、私は徹底的に〈原典〉に帰ることにした。手塚治虫のマンガと手塚自身が語った言葉に立ち返ってみようと思ったのである。というのも、竹内オサム氏や夏目房之介氏などのマンガ評論家の「発見」と思われるものの殆どは、手塚が自身で語っているからだ。(原論文、p.6)
 

 ここでの「殆ど」を無条件に受け入れる読者は、もはや「殆ど」いないのではないかと思われます。先ほど触れたような、コマによる時間の重層化や、描線表現の高度化による「内面」描写等について、手塚自身がどこで語っているというのか、著者には例示する責任があると思われますが、その責任がこの論文の中で果たされることはついにありません。
 こうして、該当個所の全文を引用しつつ確認してきた議論から明らかなように、著者である竹内一郎氏は、夏目房之介氏の仕事を、むしろ研究の発展を阻害する性格を持つものと捉え、「マンガ表現の技法に関する議論」を「「夏目氏以前」に戻す必要がある」と考えています。この、もしこれが選書メチエ版にも含まれていれば、さらに大きな批判を浴びることになったのは確実の、先行研究への言及を、選書メチエ版で完全に削除してなお、「研究の精神は削っていない」と言えてしまうのも、そのためだろうと考えられるのです。
 ずいぶんくどくどと、本文中における原論文と選書メチエ版との唯一の違いと言っていい部分を確認してきましたが、要するに原論文もまた、ある意味では選書メチエ版以上に、先行研究の検討のずさんさを如実に示していると言わざるをえません。本文以外では、選書メチエ版では「約二〇分の一に削ってある」と言われる図版資料が、1点たりともその図版の出典を(その図版自体をどの資料から取ったのかも、初出についての書誌も)記されていないという、信じがたいずさんさであることを指摘しておきます。以上、この論文が、博士論文の水準に達していないと私が考えるゆえんです。


 前回のエントリに書きましたように、もともとは、これに続けて、この論文が拠って立っている根本的な前提、しかも極めて奇妙な前提である、「ストーリーマンガ」は戦後の日本に固有のものであるという前提がどこから来ているのか、指導教官である日下翠氏の著作との比較を通じて検討するつもりだったのですが、もはや通常のブログのエントリの分量を著しく逸脱している上、必ずしも今急いで世に問う必要はないようにも思われますので、いったんここで、一連のエントリを終わりにしたいと思います。日下氏の著作の問題点のほか、この竹内氏の著作についても、あといくつか指摘しておきたいこともあるにはあるのですが、なにぶん、勤務先の仕事が多忙を極める上、今回の問題とも通じることですが、やはり、限られた時間の中で自分の博士論文を少しでもよいものにする努力を優先すべきかとも思いますので、悪しからずご了承下さい。