宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

土居伸彰×三輪健太朗×宮本大人「マンガとアニメーションとリアリズム―『個人的なハーモニー』から考える」

 今日、ゲンロンカフェで行われるこちらのイベントの始めに私の方から土居さんのお仕事と三輪さんのお仕事がいかに近い問題意識の中で響き合っているかをざっとお話するのですが、その予習・復習に利用していただければと、お二人の本から、今日の議論にとって重要そうな部分の引用集を作りました。
 ワードで作ったものをベタっと貼っただけなので、読みづらいと思いますが。←【追記』ゲンロンカフェのイベントページにPDF版を載せてもらえました!こちらの方が読みやすいので、ぜひ!

http://genron-cafe.jp/event/20180404/

直リンクはこちら!
http://genron-cafe.jp/wp/wp-content/uploads/2018/04/7fe3334dd80a006f9e19af24a476c889.pdf



マンガとアニメーションとリアリズム−『個人的なハーモニー』から考える
2018.4.4.@ゲンロンカフェ
参考引用集(宮本大人


1.土居伸彰『個人的なハーモニー』と三輪健太朗『マンガと映画』に共通するスタンス

個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論

個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論

マンガと映画

マンガと映画


『個人的な…』:「アニメーション」という言葉自体の歴史性を問う

 アニメーションとは何か?アニメーションに関する数々の入門書をめくれば、その答えはだいたいこのようなことを書いている――アニメーションという言葉はラテン語の「animare=生命を与える」に由来するという語源や、アニメーションとは無生物を動かして生命を与えるということである。一方で、この「アニメーション」という言葉がいついかなるようにして使われるようになったのか、その起源や歴史性については、ほとんど情報を見つけることができない。あたかも、アニメーションという言葉が、太古の昔から、当たり前のように存在していたかのごとく。(p.58)

「本来」アニメーションは…という普遍性を装う物言いを相対化する
アニメーションの「本質」がいつも変わらぬものとしてあるという硬直化した本質主義から距離を取る
常にその性質を変えながら動いていくものとしてアニメーションという表現ジャンルの生態を捉えようとする姿勢
三輪の『マンガと映画』にも同様の姿勢

「普遍的に妥当するマンガのシステムなるものは想定されえない」「システムは通時的にみて変化しうる」「システムは共時的にみて複数存在しうる」(pp.34-35)

マンガ表現の「発展」の度合いを測る尺度として「映画的技法」などの「手法」の有無を検証するという方法に対する批判

 個別の手法の水準にではなく、作品全体が基づいているシステムの水準に着目して、様式を理解すること。ここには、理論的な観点とは別に、もう一つの重要な目的がある。それは、マンガ史的記述の中からナイーブな進歩史観を排除することである。「手法」への定位は、しばしばその「手法」を、「洗練」され「発展」され「完成」されるべきものと見なす傾向を帯びてしまう。たとえば竹内は、手塚の革新性を述べようとする文脈で、「古典的な同一化技法をのりこえている」といった言い回しを用いている。こうした表現は、竹内自身の本意ではないのかもしれないが、否応なく一種の進歩史観を連想させてしまう。(pp.166-167)

同じ技法が違う効果をもたらすことがありうる
メディウム・スペシフィック」な要素の相対化→eg.マンガには「本来」音声がない、マンガは「本来」静止画である(運動がない)
実際には、直接音声を発することができないにもかかわらず音声を表す工夫を積み重ねてきているからこそ、「無音」を表現することの方が難しい
実際には、「本来」静止画である中で運動を表現するのが「普通」であるからこそ、「静止」状態を表現する方が難しい

マンガやアニメーションという表現システム/メディアの「本質」を論じ始めた途端、人々が陥りがちな思考の抽象化・硬直化を回避し、現に生きて動いている表現の生態を歴史の中で捉えようとする姿勢



2.『個人的なハーモニー』のキーポイント
2.1.謎、「個人的」ということ
ノルシュテインの『話の話』はなぜ謎めいているのか?

絵を用いるアニメーションは、本来、「謎」とは対極の、すべてを明快に表すものであるはずで、たとえすぐにはわからなかったとしても、それは文化のコードや読み取りのコードが違うだけであって、それを学びさえすれば「謎」は消えるはずなのだ――キッソンや高畑が「謎」の調査を行おうとした際に前提としていたのも、アニメーションは明示的な意味を持つはずだ、とういうテーゼだったのではないか。
 しかし、そういった全体に基づく読解・分析がすべての疑問を解決してくれたのかといえば、そうではなかった。だとすると、このような疑問も浮かんでくる――もしかしたら、その前提自体が間違っているのではないか?つまり、アプローチを変えれば理解可能なものにおさまるだろうという前提に実は根拠がないとしたら?もしかして、『話の話』は、「謎」であること自体に意味があるのだとしたら?「謎」が「謎」のままに残り、あたかも観客がその異質さによって拒絶されたかのように感じたり、作品の与える印象が不定形のまま流動をやめず、観客と作品のあいだに安定した関係性を築かないことこそが、重要なのだとしたら?(p.23)

テクストの意味は多様な解釈に開かれているという一般的な認識からさらに進んで、なぜ『話の話』においてはそうなのか、を問う中で「個人的」というキーワードが出てくる

「個人的」という言葉自体の意味の重層性
「個人的」の対義語が、文脈ごとに違っている
「非・商業的」「非・集団的」「非・社会的」
そこからさらにその意味が膨らんでいく

「個人的」であることは、二つ目の視点にもつながっていく――言葉を並べていけば、「非明示的」・「非共有的」・「不確定的」・「流動的」であるということである。(p.39)

2.2.原形質性
エイゼンシュテインのディズニー論の再読から

 これらの例全てを貫く一つの前提がある。一度定められれば永久に固定される形状という拘束の拒絶。硬直化からの解放。ダイナミックにいかなる形状をも取りうるという能力。この能力を私は「原形質性」と呼ぼうと思う。なぜならば、ドローイングで具現化された存在は、形状を定められ、輪郭を決定されていても、原初的な原形質のようにふるまうからだ。原形質性は「安定した」形状をもたず、好きな形状をとることができ、発達段階を行ったり来たりすることで、生けるものが取りうるあらゆる――すべての――形状に固定しうるからだ。(p.188)


 だが、エイゼンシュテインのこの原形質性の概念を考える際に気をつけねばならないのは、エイゼンシュテインは決して、ビジュアル(物質性)の次元における具体的なメタモルフォーゼについて語っているのではないということだ。ラーキンの作品のように描線がぐにゃぐにゃと曲がるとき、それこそが原形質性の具体例にも思えるが、しかしおそらくそうではない。目に見えて起こる変容の話をしているのではないのである。ディズニー作品を語るエイゼンシュテインの言葉は、ディズニー作品において実際にメタモルフォーゼが起こっているように錯覚させるが、そうではない。『人魚のおどり』を観ても、タコは象に実際に姿を変えるというわけではない。自らの身体の輪郭線を象に模すことによって、結果として象のような印象をあたえているというだけなのだ。
 エイゼンシュテインが原形質性という言葉で意味しているのは、アニメーションのビジュアルのそのリテラルなレベルで起こっていることではない。アニメーションを観る私たちの意識(つまり抽象性のレベル)において――すなわちエイゼンシュテインの言う「メタファー」を知覚するレベルで――起きている変容である。二重性が活用されることで、描かれているもの(実際に存在しているもの)とは違ったものを、アニメーションは観客に見せうるということ――物質的にはタコでありつつ、同時に「メタファー」としては象になる――、それを語っているのである。(pp.188-189)

 ノルシュテインにとって、子供の絵は、アニメーションが本来そうあるべきことを行っている。ノルシュテインによれば、「概して、子供の絵というものは、簡素さ、鋭さ、現実的なものを欠いた空想によって驚きに満ちている」。子供の絵はシンプルな線や色彩によって組み立てられ、写実性という意味でいえばまったくもって現実的ではないが、しかしそれは子供自身が見いだした「具体性」を体現したものとして、それを見る者には受け止められているはずだと考える。(pp.250-251)

 子どもがどのように絵を描くか思い出してみてください。子どもたちはよくこんなふうに描くでしょう。紙の下の方に線を描く――それは大地です。上の方に線を描く――それは空です。〔……〕空も大地も、子どもたちにとっては、一本の線のなかに入りきってしまうものなのです。この意味で、子どもの考えというのは、概して驚くべきものなのです。子どもはすべてを驚くほど明確に、そしてはっきりと見ていて、すべてを線のなかに凝縮し、描写しきっているのですから…… (p.251)

 われわれはそれらが……ドローイングであって生きたものでないことを知っている。
 われわれはそれらが……スクリーン上にドローイングが映写されたものであることを知っている。
 われわれはそれらが……似たようなものも実在しない「奇跡」、つまり技術的トリックであることを知っている。
 しかしそれらとは不可分に、
 われわれはそれらが生きていることを感覚する。
 われわれはそれらが活動し動き回ることを感覚する。
 われわれはそれらが存在し、思考するとさえ感覚する。

ここでエイゼンシュテインが語っているのは、アニメーションにおける「イメージ」創出の可能性のモデルである。単なるドローイングの集積であることは「知っている」。でも、それは生命として「感覚」される。ここで語られているのは、目撃されるドローイングと、それを通じて感覚される「イメージ」のズレである。(ドローイングの)アニメーションは、絵であることを意識に上らせつつ(「知っている」)、それでも同時に、自動的に生や思考を知覚させる(「感覚する」)。ここにおそらく、アニメーションの原形質性をめぐる分水嶺がある。その左右どちらに行くかにおいて、アニメーションが「芸術」になりえるかどうかが決まる。エイゼンシュテインがディズニーのアニメーションに対して驚くときに意識しているギャップやズレは、ディズニー自身にとっては消し去ってしまいたいものだった。静止画が生命に見える魔法は必要ない。魔法は、物語の次元において、キャラクターたちの境遇にこそ起こらねばならない。一方、ノルシュテインの観点からすれば、そのズレは保たれねばならない。(pp.256-257)

戦場でワルツを」などのアニメーションドキュメンタリーにおける「リアリティ」

 ここで起こっているのは、原形質性のアップデート版である。エイゼンシュテインがディズニー作品にその性質を見いだしたとき、それはもっぱら、現実からの離脱として考えられていた。対して、ここで起こっているのは、現実自体の根本がそもそも揺らぎ、離脱を永遠に繰り返す状態である。アニメーションが変性する現実を説得力をもって提示するとき、むしろ、実写映像の方こそが、あまりにも均質であるがゆえに嘘くさく、フィクションのように見えてしまうという事態が起こる。実写の世界=現実/アニメーション=虚構という単純な区分はもはや成立しない。アニメーションと実写に区別はつけがたい。もっと言えば、アニメーションは「親密な」現実となり、実写は「疎遠な」現実となる。原形質性の働きにより、転覆が起こるのだ。すべては、現実は多種多彩なグラデーションとなり、それぞれすべてがそのフレームの「上」で展開しうる可能性の一つとなる。

3.『マンガと映画』における『個人的な…』との共鳴点
3.1.「記号」的ということ

 マンガが「記号」的な表現であるということは、作り手と受け手の間に、ある種のコードに基づいた約束事が成立しているということである。そして、それが約束事である以上、その約束がいつも守られるとは限らない。(p.182)

ただの地平線として描かれたはずの線は、本当なら成長する山の背後に隠れるはずの場面で、隠れない。このとき地平線は、地平線の性質を画像の中の関係としては保ちながら、同時に「地平線でないもの」にもなってしまう。しかし「地平線でないもの」は、それ以上に何かを指示する何者かであろうとせず、ただあり得ない線としてそこにあり続ける。
 つまり、それは抽象的な「ただの線」なのだ。だから、マンガ的な約束を逆手にとって、何でもできる。山を切り取ることだってできるのだ。(p.183. 夏目房之介「マンガ描線原論」の引用)

 このことを逆に言えば、マンガのテクストを構成しているあらゆる要素は、もともと「ただの線」なのであり、読者はそれを様々な約束事に従って何かの表象として読み取っているにすぎない。だから、その世界の中では「何でもできる」し、何だって起こりうる。しかし、だとすれば、そのことの裏返しとして、実はそこでは何も起こりえないのではないか。あらゆることが可能な世界とは、あらゆることが無効になってしまう世界のことなのだから。(p.183)

3.2.キャラ/キャラクターとリアリズム

 …大塚の議論においては「記号−非リアリズム」と「写実−リアリズム」とは対置されるべきものであり、だからこそ「記号的キャラクター」に「傷つく身体」を与えることは「矛盾」とされるほかないのである。つまり、大塚的な議論の枠組みにおいては、マンガにおけるリアリズムの獲得は、「記号的(非リアリズム的)キャラクター」に「身体性(写実的リアリズム)」を与えるという、本来なら矛盾した営為によって成し遂げられたのだということになる。(p.190)

…大塚においては、「記号的」に描かれたキャラクターが、にもかかわらず「傷つく身体」を持つことでリアリズムを獲得するという図式が見出される。一方、伊藤の議論には、「単純な線画」で描かれたキャラクターが、だからこそ「実在感」を持つという図式が見出せる。前者において「矛盾」ととらえられた問題が、後者においては論理の「根拠」として捉え直されているのである。
 ここで、最後の引用文で「プロとキャラクター性」と呼ばれていたものについて確認しておこう。これは、伊藤が打ち出した「キャラ」と「キャラクター」の概念を区分する議論において、「キャラ」の側に対応する概念である。大塚の「記号的身体」に近い概念としても説明され、その定義は次のようになされる。
 
 多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 この「キャラ」と対比される「キャラクター」の方は、次のように定義される。

 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

伊藤によれば、マンガのキャラクターは、簡単な線画を基本とする「キャラ」(記号的身体)の持つ実在感にこそ支えられている。しかし、それを基盤としながらも、「キャラ」が本来記号的なものでしかなかったことを隠蔽し、あたかも「身体」の表象であるかのように見せかけることで「キャラクター」が成立する。
 この「キャラクター」の成立こそ、手塚治虫が『地底国の怪人』によって成し遂げた事態であり、伊藤はそれを「マンガのモダン」の成立と捉える。その議論の骨子を、ここまでの本書の文脈からまとめればこうなる――記号的な「キャラ」が本来的に持ちうる「リアリティ」を隠蔽し、それを「(人格を持った)身体」の表象たる「キャラクター」として読ませることによって、近代マンガはリアリズムを獲得した。(pp.192-193)

(宮本註)『テヅカ・イズ・デッド』における「リアリティ」の二つの水準の区分
「もっともらしさ」:「作中世界の事件やものごとをいかにも「実際にありそうなこと」に感じさせる」(p.85)
「現前性」:「作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも「ある」かのように錯覚させる」(p.85)
一般に「リアリティ」という言葉は「もっともらしさ」の意味で使われ、「現前性」は、普通、意識されない。

 何であれ「表現」が作中世界を受け手の前に現前させるということは、受け手がじゅうぶんに作中世界に「没入」していることを意味する。そのために、さまざまな工夫がなされ、表現上の技術は蓄積される。受け手が作中世界に没入している以上、普通はその「没入」をもたらす装置のことは意識されない。たとえば、普通の観客が映画を見てもそのカットのつなぎには気がつかないといったことは、その好例だろう。(伊藤2005,85)

「キャラ」の「現前性」(=「存在感」「生命感」):「簡単な線画を基本とする図像によって表現されるものであること」によってもたらされる。

ササキバラ・ゴウの議論

 アニメーションの「登場人物」が人間というリアリティを棚上げして、キャラクターとなって疾走していくとき、おそらく現在われわれが日常的に慣れ親しんでいるような意味での「キャラクター」が、そこに生じていったように思われる。物語の重力圏にとらわれ、その中で役割を果たすための奥行きと重さを持った「登場人物」から、浮遊する空っぽの「キャラクター」へ。そのテイクオフには、おそらくこの時代のアニメーションが大きく関わっている。……「物語」や「現実」の重力を、「動き」という魅力によって断ち切り、単に絵でしかないものとして記号の世界へ浮遊していくこと。

 単に絵でしかない、という事態は、絵が単に絵である以上に何ら奥行きを持たない、ということだ。紙の上のインクのしみや、黒板の上の白墨のように、奥行きを欠いた、まったく表面的なもの。

ここでササキバラが「キャラクター」と呼んでいるものは、伊藤の区分では「キャラ」に相当する。マンガやアニメーションに描かれる「キャラ」とは、そもそも「紙の上のインクのしみ」でしかないものである――この根本的な事実こそが、その実在感を支えている。
 とすれば、そのような「キャラ」のリアリティを隠蔽した「マンガのモダン」において、「キャラがコマ枠を突き破る」ような自己言及的な身振りが抑圧されねばならなかったのは当然である。そのような表現は、枠線もその中に描かれたキャラも等価な存在であって、ともに「インクのしみ」でしかないことを露わにしてしまうだろう。
 したがって、「映画的リアリズム」が要請される一方で「フレームの不確定性」が抑圧されたという伊藤の議論は、実のところ「コマ」や「紙面」そのものを問題にしていたわけではない。そこで問題になっていた対立は、むしろ「仮想的なカメラ」と「インクのしみ」との間に見出されるべきものなのである。つまり、フレームの中に描かれた光景が、単なる「紙の上のしみ」などではなく、「仮想的なカメラ」によってとらえられた空間であると見なさせること――それこそが要請されていたのである。
 こうして我々は、「映画的」という言葉の用いられ方を検討することで、大塚や伊藤の議論が本来「キャラクター」の問題には要約しきれないものであること、むしろ「空間」の表象に関わるものであるという理解に辿り着くだろう。(pp.202-203)

『プレーン・クレイジー』から『白雪姫』までの間に、アニメーション史は少なくとも三つの大きな技術革新を体験している。そして、そのいずれもが、現実と同質の「空間」を表象=再現するというリアリズムに寄与しうるものであった。
 第一は「音響」である。ディズニー初のトーキーは、ミッキーマウスを主人公とした短編作品『蒸気船ウィリー』(1928)だが、そこにはたとえば、「まだ姿を見せていない蒸気船の汽笛が聞こえ、それから船が画面に入ってくる」といった場面が見られる。こうした例では、音響の働きによって、目下フレームに捉えられている光景がそれ自体で完結したタブローではないこと、画面外にも同質の空間が広がっていることが強調される。
 第二は「色彩」である。ディズニー作品における色彩は、1932年の『花と木』で初めて登場するが、同時代的にディズニーのアニメーションを体験した今村太平は、その重要性を次のように強調する。
 
 今後の漫画映画から、色を取り去ることはできない。それは映像が光の運動だからであり、光の運動は色だからである。このことはアニメ―ティングによってもまた不可避的である。写真による運動の分析は、単純な線への還元を困難にする。なぜなら運動する形は色と光だからである。事物の運動、それは色の運動である。極彩色漫画の快感は、その根底に、かかる客観的現実の、より完全な再現があることに基づいている。

こうした言説からも、アニメーションが「現実」の「再現」=表象を目指してリアリズムを獲得したと見なされてきたことが確認できる。
 第三は「マルチプレーン・カメラ」である。この技術は、背景を複数の層に分割し、それぞれを独立に動かすことで、現実的な「奥行き」感を実現した。J・P・テロッテは、ディズニーの技術的な発展が目指していた一つの方向性として「現実の幻影を作り出すこと」を挙げているが、その観点から見たとき、「「現実の幻影」を高める技術革新、分けても最も歓待された装置は文句なく、初期のアニメーション史における開発の系譜に足跡を残すマルチプレーン・カメラだろう」と語られることになる。
 音響、色彩、マルチプレーン・カメラ、これらに見られる技術的発展は、以上のように、アニメーションが現実の空間を表象=再現することに貢献してきたと言える。そしてこの流れは、一九九〇年代以降、アメリカの長編アニメーションを牽引することとなる3DCGアニメーションへと着実に受け継がれている。(pp.204-205)
 
 だが、現実と同質の空間を模すという方向性は、決して歓迎されるばかりではなかった。「インクのしみ」でしかないからこそ今日につながる「キャラクター」は文化を生み出しえたアニメーションが、現実の空間を再現しようとし始めたとき、そこに起こった転回は、ときとして批判的に受け止められたのである。
 たとえば、『ダンボ』(1941)に対するジークフリート・クラカウアーの次の表は極めて興味深い。

 ディズニーの最初のミッキーマウスカートゥーンである『プレーン・クレイジー』(1928)では、漫画家のペンの力のみによって、小さな自動車が飛行機に変形され、操縦室のミッキーを飛行させる。『ダンボ』でも同様の奇跡が起こり、象の赤ん坊が突然耳を広げ、ペガサスや爆撃機のように宙を滑空する。しかし、ここでの奇跡は、この映画がカートゥーンだからという事実に単に由来するのではなく、ダンボの友人である小さなネズミが、横柄な鳥たちから手に入れた「魔法の羽」の心理的な効果に依っているのである。この些細な相違は、ディズニー映画の構造上の変化を露わにしている。

 クラカウアーがかくも重視する「変化」は、大塚的な枠組みの中では理解できないものである。『ダンボ』の中で大事故にあった象たちは、「包帯姿になる」という申し訳程度の描写で「傷つく身体」を回避され、また「赤ん坊がコウノトリによって運ばれて来る」という映画冒頭のシークエンスは、露骨に思えるほどはっきりと「性的な身体」を排除している。ここでの「変化」は、「インクのしみ」であるがゆえに自由に飛ぶことのできるミッキーマウスの引こうと、本来なら飛ぶことなどできようはずもない物理的な「空間」に生きているダンボの飛行との間に見出されるのである。(pp.207-208)

 土居伸彰は、ライアン・ラーキンを論じた文章の中で、このクラカウアーの議論のほか、セルゲイ・エイゼンシュテインら初期の映画作家ないし映画理論家たちが、初期アニメーションの持っていた「原形質性」「可塑性」を称賛していたことを紹介している。それは、アニメーションが本来「インクのしみ」でしかないからこそ実現できたメタモルフォーゼの魅力、描線の多義性が孕む豊かさの魅力であった。
 そして、そのような観点からアニメーションの力を称賛していた論者たちにとっては、アニメーションが現実と同様の物理的空間を表象することを目指すなど、何ら望ましい事態ではなかった。(p.208)

 しかし、このような多義性の世界に変わって表に出てきたのは、大塚や伊藤が「映画的」と呼んで示そうとした種類のリアリズムである。クラカウアーは、「ディズニーがここで実写映画の技術を模倣しようとしていることは疑いない」と断じる。また別の角度から述べれば、それはササキバラが「物語を描くために必要なリアリズム」と呼んでいたものでもある。クラカウアーの言葉では、「リアルなスタイルへの変化は、ストーリーを要求する長篇のカートゥーンによって助長された」となり、ここでもまた見事に呼応している。(p.208)