宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

ゼミブログ短期集中更新中

 告知遅れましたが、明治大学国際日本学部ミヤモトゼミのゼミブログ「みやもーど」は、5月3日深夜より(なので日付は5月4日から)1期生14名による、東日本大震災とメディアと私、といったテーマのエントリを毎日掲載しています。
 すでに3人目の分まで掲載されていますので、少し遡って最初からお読みいただければと思います。


http://miyamoseminar.blog133.fc2.com/


 こうしたテーマでゼミブログを書いてもらうことについては、若干の迷いもありました。今でもあります。少し書きます。


 極めて多くの人が話題にしている大きな問題については、当事者として切迫した関わりがある場合か、あるいはそれについて発言することで、議論を建設的に進展させる意義があると思える場合以外は、うかつにものを言うべきではない、と僕は思っています。
 なぜなら、それでなくてもあふれかえっている情報と意見の海に、その状況を変える意義をもたない水をバケツ一杯注いでも、意味がないか、あるいは、状況を悪くするだけであると考えられるからです。
 また、自分としては、そうした大きな問題についてあまりに多くの言葉が行き交うことで、他の、その大きな問題が生まれる前から存在していた、その大きな問題よりは小さいのかもしれない様々な問題が、かき消されて、見えなくなってしまうことを恐れるからです。
 3月11日の以前から、3月11日の後もずっと、震災とは関わりなく、不慮の事故で命を失ってしまう人、その事実を受け止めきれずに苦しんでしまう周囲の人は、いるのではないか。日本のどこかで虐待され続けている子供たちや、虐待してしまう自分をどうにも出来ずに苦しんでいる親たちは、いるのではないか。職を失い、住まいを失った状態で、病に苦しんでいる人は、いるのではないか。周囲に相談できない悩みで、あるいは悩みを相談できる人をもたない苦しみから、自らを死を選んでしまった人、あるいは今まさに選ぼうとしている人は、いるのではないか。
 3月11日より前からこの社会には、多くの、いたわりや励ましの声をかけられるべき境遇、手を差し伸べられるべき境遇にありながら、それが得られず苦しんでいる人がいたはずだ。そうした人々の姿が、今、3月11日以前より、さらに見えにくくなってしまってはいないか。そうした人々の支援に関わっている人々の声が、今、3月11日以前より、さらに聞こえにくくなってしまってはいないか。


 僕が小さいころから疑問に思っていたことがあります。
 人の命は地球より重いとかいうなら、なぜ1人死んだ交通事故より300人死んだ飛行機事故の方が大ニュースになってしまうのだろう。それは、結局人の命の重みは計量可能だと考えてしまってるってことじゃないのか。身近な人にとっては、交通事故による死の方が、大事故による死より軽いなんてことはないはずなのだし、1人死のうが300人死のうが、それが見ず知らずの他人の死である限り、他人事であることに変わりはないはずだ。戦争や天災で何万人の人が一度に亡くなるのと、一つの社会で年間トータルすると万単位の人が自殺しているのと、どちらがより深刻な事態なのかを測る物差しなど存在しないはずなのに、片方についての語りばかりが圧倒的に多くなってしまうとすれば、それはおかしいのではないか。
 こういう違和感は、いたって幼稚なもののようにも思います。今なら、一度に極度に多くの人の命が奪われる状況は、やはり、社会全体に影響を及ぼしてしまうということはわかります。現に、今この社会がそうなっているように。
 また、これは僕自身に子供がいることとも関わりますが、津波の被害に遭った小学校にランドセルが積み上げられている映像など見ると、このランドセルが自分の子のものだったら、という想像がいっぺんにリアルに展開して、自分でも驚くほど胸が苦しくなってしまう。全く当事者とは言えないレベルの安全地帯にいても、現にかなり影響を受けてしまっている。
 学生たちも、程度の差はあれ、何らかの心理的影響は受けているだろう。だから、少し時間がたった今、今回の事態について、一人ひとりが自分なりの考えをまとめておくために、その考えを言葉にしてみることには意味があるのではないかと考えました。
 今自分が発するこの言葉が、他の多くの、自分が今まで気にしたこともないような問題を見えなくしてしまうかもしれない、という意識をどこかに持ってさえいれば、現に今自分が何らかの形で当事者になってしまっている問題について、とりあえずその言葉を発することは許されるのではないか。
 

 僕のゼミの学生たちには、被災地域出身の学生も含まれています。彼らにとってはまだ震災は終わってなどおらず、2か月足らずくらいの時間で、その体験とその意味をうまくまとめることなどできないかもしれない。
 一方で、就職活動の混乱など、それなりに影響は受けているけど、特段大きなショックを感じているわけではないので、わざわざゼミブログでこうしたテーマで書くことに違和感を覚えている学生もいるかもしれない。
 しかし、実際のところ、彼らがこの間の体験をどう受け止め、消化できているのかは、所詮週に1度会っているだけの教師にとっては、言ってもらわなければ分かりっこないわけです。それなりに推し測ることはできるけれど、それが当たっている保証などない。もちろん聞いたところで返って来る答えですべてが分かるわけではないけれど、何も聞かない方がもっと分からない。
 だから、14人の同年代の、似通った興味・関心をもつ小集団の中にも、そうした温度差というか感じ方・考え方の違いが存在するのなら、それが存在していることを、お互いに知ることには、意味があるのではないかと考えました。普段仲のいいゼミ生たちだからこそ、余計にその意味は大きいのではないかと、考えました。
 そして僕自身、彼らがこの2カ月足らずの間に、どのようなことを体験し、感じ、考えてきたのかを、知りたいと強く感じていました。それは、なぜでしょうか。
 今回の被災地域の大学には、同年代で、やはりメディア文化系の研究をしている友人が複数います。11日当日、地震の報道に触れながら、彼らのこと、そして彼らの学生のことを思いました。
 歳も近く、大学教員の公募でも同じようなところに応募してきたわけなので、彼らではなく、僕が彼らの大学で勤めていた可能性は十分ある。そうだったとき、自分は何を考え、何をできるだろうか。この状況の中で、自分のゼミ生と何日も連絡がつかなくなってしまったら、どういう心理状態になるだろうか。
 そう考えたときに、うわー、1年付き合ってきたけど、自分は彼らとまだ全然話し足りないよ、彼ら一人ひとりと、ほとんど、本質的なコミュニケーションをしてきてないよ、と思ったのでした。彼ら一人ひとりの、彼ら一人ひとりにしか発することのできない言葉に、ほとんど触れてきてないよ、と思ったのでした。
 で、思わず、彼らに向けた長いエントリをこのブログに上げたり、展覧会の企画を立てて、会う機会を作ったりしたわけですが、当然のこと、ガチのリアクションがメールで来たり、みんなでわいわい展覧会見た後の飲み会で深いコミュニケーションができたりはしないので、やっぱり、何か書いてもらおうと、思った次第です。


 実際には、誰しもそうであるように、彼らも、体験したこと・感じたこと・考えたことのすべてを語る・語れるわけではないでしょうし、そうしなければならないわけでもない。現にこんなことをしているのはうちの学部ではうちのゼミだけです。
 一生懸命悩みながら書いてくれたとしても、今、辺りを流通している、いくつかの「真剣に発せられた言葉」の類型のどれかとどれかをなぞるのが精いっぱいかもしれない。そのどこからどこまでが彼ら一人ひとりの「本当に言いたいこと」なのかを判断することなどできない。
 それでも、僕は彼らが、こういうお題を出されたときに、どんな言葉を返してくるのかを、知りたいと思ったんですね。まずは自分自身の具体的な体験から語り始めてほしいということ、自分がこの間どのようなメディアにどのように触れてきたのかも考えてほしいということ、を言うことによって、彼ら一人ひとりにしか書けない何かが出てくるのを期待したのでした。

 
 メディアとサブカルチャーなんていうテーマのゼミを、僕はサブカル偏差値やおたく偏差値(そんなものがあるとして)を高めてもらいたくてやってるわけではありません。
 自分にとって切実な問題を、自分にとって身近な事柄から一つずつ積み上げるように考え、それを他人に、どのみち100パーセント分かり合えるなんてことはありえないとしても、じゃあどう分かり合えないのかを一緒に考えられる程度には伝えられるようにする力を、つけてほしくて、やっています。
 自分でもうまくまとめられない考えや感覚を、じゃあどんな感じのまとめられなさなのかを、自分で自覚できる程度に表現できる力を、つけてほしくて、やっています。
 今回のテーマでブログを書くことも、そうした力をつけることにつながるだろうと、考えました。
 分からないことがたくさんあるのは、大前提。
 被災してない人間には、被災者の気持ちは分からない、というような話ではありません。
 そうではなく、むしろひとくくりに「被災者」とされてしまう人同士だって、その体験は千差万別のはずだし、感じ方、考え方も千差万別のはずで、「客観的」にはほぼ同じ程度の被災であっても、「分かり合える」とは限らない、というような、そういう分からなさを引き受けるしかないだろうという話です。
 この線からこっちが「被災者」で、この線からこっちはそうじゃない、というような線引きができるという前提で、こっちにいる人には全部分かって、こっちにいる人には全部分からない、というような「分かり方」は、しないでおこうという話です。
 うまく言えないことがたくさんあるのは、大前提。
 逆に言うつもりのなかったことをうっかり言ってしまったりするリスクを負うのも、大前提。
 人間は、分かろうと思えば簡単に分かってしまうことだけを考え、言おうと思えば簡単に言えてしまうことだけを話して、生きていくことはできない。
 それを意識せざるを得ない状況の中で、何かを書いてみようとすること。
 そういう要求をしてみました。こんな要求は間違っているかもしれない。その答えは、学生たちが出してくれると思います。