宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

今日の薬局の絵本

 処方箋をもらってすぐ近くの薬局へ参りますと、こちらは絵本の選択肢がかなり特定の方向に限定されている模様。そこから選ばれたのはこちら。

ノンタンぶらんこのせて (ノンタン あそぼうよ1)

ノンタンぶらんこのせて (ノンタン あそぼうよ1)

 こっちは当然のように画像があるんですね…。ノンタン、ウチの弟が小さい頃好きだったので、昔から知ってますが、今読むと、ほんとにあからさまな教訓話が多くて、リベラル親としてはちょっとにゃー、と思わせられるものの、やっぱり人気になってるものには何かあるわけです。ま、やっぱりこの何やら絶大な吸引力を持つ絵柄と、妙に刺激の強い話や描写でしょうか。
 「がんばるもん」の方なんて、怪我をしたから病院に行って、みんなに応援してもらってがんばって注射打ってもらったから治りました、って話なわけですが、その怪我っていうのが、ブランコから落ちただけなのになぜかノンタンの耳がちぎれかけてて、破れ目が赤く血に染まってるわけですよ。で、なんで耳の怪我なのに注射かっていうと、耳を縫う前に全身麻酔をするためなんですよね。なんか、必要以上に過激化してないか?って気がするんですが、その辺りがまた福音館とか岩波とかの絵本ばっか読んでる子からすると斬新なんでしょね。ただこれは、さすがに手放しで楽しんでる感じじゃなかったかも。
 あ、あとミッキーマウスの絵本も読みましたが、あまりに内容薄くてタイトル忘れてしまいました。

 えっと、あの、誤解されるといけないんですが、僕はいわゆる「いい絵本」を読んでる子が、アニメ絵本みたいなのしか読んでない子より幸せだ、みたいなことは言えないと思ってます。自分も「しょうぼうじどうしゃじぷた」とかのわずかな例外を除けば、いろんな乗り物が順番に出てくるだけのボール紙絵本と、保育園にあった「ひかりのくに」しか読んでなかったですし、「ゲッターロボ」で、機械獣が「壊される」、というより「殺される」という方がふさわしいシーンを保育園時代から見てたわけですから。要するに、「それはそれ」なんですよ。
 客観的には、他人が勝手に、他人の人生がどの程度しあわせかを言うことなどできない。僕ら夫婦が、一概に「ノンタンは読んじゃダメ」とも言わないことも含めて、コドモにいろんな絵本に触れる機会を与えているのも、要は趣味の問題です。オクサンはもともと岩波・福音館文化圏でお育ちになっているので、ごく自然に図書館で面白そうな絵本が見つけられるし、僕は逆に児童文化学科で仕事するようになってから、ご縁ができて、こんなにおもろい世界があるのかと思って気になり始め、コドモができたのをいいことにいろいろ読もうと思っているから、いっしょに図書館行くのが楽しいってだけなわけです。
 もちろん、そういう楽しみを親の勝手でコドモに押し付けていることになるわけですが、自分たちがそれなりにいろいろいやな思いもしながら30年以上生きて来て得た、「こういうふうだと楽しい、面白い」という考え方にはそれなりの自信がありますから、当面、当事者として深く関わりながらいっしょに暮らさざるを得ないコドモにも、それをある程度共有してほしいわけですね。
 だけど、「Aだとしあわせ」だからといって「Aでないとふしあわせ」とは限らないわけで、そこんとこを取り違えて、ほかと比べた相対評価として「Aのほうがしあわせ」だとは思いたくないのです。
 なんで、こんなことを書き始めてしまったかというと、「いい絵本」に関わる仕事をしている図書館の人や、読み聞かせの活動をしている人たちのある種の「善意」の中に、幸福の尺度は複数ある、ということをどこかで忘れてしまっているのではないかと思わせられる、もしかして「Aでないとふしあわせ」とか「Aのほうがしあわせ」とか思ってませんか?と思わせられることが、あるからです。
 ま、今はそういう人もずいぶん減ったんじゃないかと思いますし、僕の周りの児童文学関係者のみなさんには全然そういう気配はないのですが、僕がいつもいわゆる「いい絵本」の類ばかり紹介し、「ノンタン」については少しちゃかしたような書きぶりになるのを見て、まさに僕もその種の「善意」を信じて疑わない類の人間かと思って不快に思われる方もおられるのではないか、お前、マンガ研究者がそんなんでいいのかよ、と思われる向きもあるのではないかと思ったというわけなのでした。すいません、だらだらと。もう日付変わってるっての。あとはさらっといきましょう。