宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

そんなわけで、

「戦後初の」とは言っても、「戦後」だからこそ実現できた、日本のアニメーション史上「初の」何かがあるのかと言えば、多分ないと言わざるを得ない作品ではあると思います。日本のアニメーションは昭和14=1939年の映画法施行後、戦時文化統制の下で、場合によっては海軍などの資金的な援助も受けながら(昭和18年の「桃太郎の海鷲」(瀬尾光世)や20年の「海の神兵」など)、大きな変容(かぎカッコつきの「発展」)を経験するわけですが、その変容以前のありように、回帰しているのがこの作品だとひとまずは言ってよいと思います。この作品にとっての「戦後」とは、戦時下における「発展」をもたらしたある種の窮屈さからの「解放」を意味するもので、戦時下の経験を刻み込みつつ、なお新たな一歩を踏み出した、と高らかに評価できるようなものではないように思います。
とはいえ、ではこの作品にはこの作品が「戦後」のそれであることの刻印が全くないのかと言えば、そうとも言い切れないかなとも思います。僕が「おっ」と思ったのは、物語全体のクライマックスにあたる、バクダット城で、モンゴーロ王子の軍勢とアーメット王子が戦う場面のある「趣向」です。
天馬に乗ってモンゴーロ王子の軍勢に蹂躙される城に駆けつけたアーメット王子は、手に入れた象牙の小箱(それは何でも望みのものが出せる魔法の小箱のようです)から次々に豆粒のようなものを取り出し、上空からばら撒きます。すると、その豆粒の一つ一つが、みな同じ顔をした兵士へと「変身」するのです。続々と空から舞い降りる兵士を地上から見上げるショットが何度か挿入されます。騎馬隊であるモンゴーロの軍勢は、この「空襲」する兵士たちに次々倒されていきます。
ここで、物語の中で三人の王子の「力」がそれぞれどう形容されていたかが思い起こされます。モンゴーロ王子は「武力」、ペルチャ王子は「財力」、そしてアーメット王子は姫を思う「愛の力」という言葉が使われているのです。物語の初めの方で三人の王子の人となりが紹介される場面で、モンゴーロとペルチャはそれぞれ自分の「力」を誇示しているのに対して、アーメット王子は、一見ぐうたらで、冗談を好むおどけた、姫の言葉をかりれば「面白いお方」として描かれており、その「力」を誇示することはありません。
実はアーメット王子は、モンゴーロも逃げ出した火の悪魔を倒してはいません。悪魔の手下たちを得意の笛で躍らせ、その間に逃げ出し、炎の城からもひたすら逃げて逃げおおせたのです。次の難関たる恐竜からも、また得意の笛の音でいい気持ちにさせることで、戦わずして逃れています。要するにアーメット王子は「愛」と「平和」の人なのです。
悪魔に勝てなかったからといって、城を攻め立て姫を強奪しようとするモンゴーロ王子だけが、アーメット王子の「戦う」相手です。基本的には争いを好まない「愛」と「平和」とユーモアの人が、どうしても倫理的に許せない悪い軍隊のみを、圧倒的な力で「空襲」して倒す、という構図になっているわけで、だとすればアーメット王子に「アメリカ」のイメージを重ね合わせる解釈もまた可能でしょう。僕は占領期の映画検閲については詳しくないので、いい加減なことは言えませんが、1948年と言えば、まだGHQ・SCAPによる検閲が、すべての映画の台本に対して行なわれていたはずで、これだけ派手な戦闘場面がたっぷり盛り込まれた子供向けの映画がこの時期に製作できたことには、それなりの意味が読み込めるかもしれないと思います。
一見、単なる娯楽一辺倒の時代への「回帰」に見えるこの作品にも、ある程度それが1948年に作られたと言うことの刻印を見出すことができる、という仮設なわけですが、この仮説を支えている「空襲」場面は、しかし、同時に別のアニメーション史的な記憶も喚起します。「桃太郎・海の神兵」の、やはりクライマックスにおいて、落下傘部隊が敵地に降下する場面です。先ほど「空襲」という言葉を使いましたが、実際の米軍による「空襲」は、ひたすら爆弾を降らせるものであったのに対し、アーメット王子の「空襲」は、無数の「兵士」を空から舞い降りさせるものであって、イメージとしてはむしろ「海の神兵」の落下傘部隊に近いわけです。物語の「意味」を解釈する文脈では米軍の「空襲」を賞賛するように見えるこの作品のクライマックスは、しかし同時に、敗戦間近の焼け野原の映画館で手塚治虫が見た、戦時下にしか生まれ得なかったであろう「傑作」のクライマックスにも通じている、というわけです。