宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

ちょっと補足の蛇足の追記

 採点の合間に、衝動的に更新しただけなんですが、たまたま割と早かったんで、えらいたくさんの人が見に来て下さってるようで。
 上で、「情報ライブ ミヤネ屋」の編集を批判してますが、もちろん、映像で見られることの意義も大きいんですよ。タモリの横顔、読み上げ方の調子、顔を上げて遺影を見るタイミング、等々を自分の目と耳で確認できるのは、テレビならではなわけです。弔辞をしたためているはずの、手にした紙が白紙に見える、とかも、テレビで見るから分かることですし。
 実際、「赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。」のくだりなど、少しテンポを落としてゆっくり声を出すことで、その瞬間のタモリの内面にぐいっと入り込まされるような感じが、文章だけでも出ていますけど、読み上げ方によって、より強調されています。


 それにしても、残念ながら僕が見たいくつかの報道番組ではすべて省略されていた「それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。」のくだりって、まさに赤塚不二夫の「数多くの作品の一つ」としてのタモリ論にもなってますよね。
 「笑っていいとも!」なんて、まさに、あれだけ続いていながら全然歴史の重みを感じさせない、つまり歴史的な時間の前後関係から断ち放たれた、そしてテレビの1日の番組全体の文脈という意味での前後関係にももはや左右されなくなった、「その時その場が異様に明るく感じられ」る永遠の現在って感じになってますもんね。
 そう考えると、「タモリ倶楽部」で見られる、坂道や鉄道など、一見「歴史的」に見えるものを愛でる「タモさん」の態度も、それらが背負っている「陰」の重さからそれらを解放してやる営みのようにも思えてきます。そのことの倫理的な良し悪しは思想的な問題のように思えますが、もしかすると、アーカイブミュージアムの存在意義を、共同体の記憶の保守というのとは違う切り口で訴える考え方が導けるかも、なんてことまで、連想したのでした。