宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

昨日の比較メディア文化=メディア文化概論

 ここまで、おもに「私」の「現実」のイメージをつくるパーソナルなメディアを考えてきたわけですが、今回からしばらくは「私」の「理想」や「あこがれ」の「世界」をつくるマス・メディアと「私」との関係を考えてみようということで、前回、受講者のみなさんに書いてもらった、子供の頃の自分のあこがれや理想の人物・キャラクター・世界とそれがどのメディアを通じて自分に届けられたか、についてをもとに授業を進めました。
 現代の日本人はほとんどの場合物心ついたときすでに多くのメディアに囲まれた状態で育ちます。が、どのメディアにどの程度・どのように接するかは様々な要因によって違ってきますし、成長に伴って、その接し方も変わって行きます。その辺を丁寧に見ようとする意識なしに、メディアの「影響」を論じるわけにはいきません。そもそも「影響を受ける」と一口に言いますが、その内実は実に多様で複雑ですし、そこには、受け手自身がメディアによって示されたものを積極的に消化し、場合によっては作り手の意図せざる形で変形していく、といったプロセスがあるわけです。
 今20歳前後のみなさんはちょうど幼稚園の時に「セーラームーン」が始まった世代なので、たくさんの人が「セーラームーン」について書いてくれていました。アニメ、マンガ、ゲーム、おもちゃ・グッズ、さらには実写とメディア・ミックス展開された作品でもあるので、講義の趣旨にもぴったりでしたのでオープニングの「ムーンライト伝説」とセーラームーンの変身&アクションシーンを見てもらった上で、みなさんの「セーラームーン体験」を語ってもらいました。セーラームーンごっこをしてたという人が多かったのですが、なにせ幼稚園なので、役を割り振った後はなんだかぐだぐだ、というパターンが多かったようです。でもその「ぐだぐだ」になるってことの繰り返しが重要で、まさに「セーラームーン」の「世界」を「自分にできる範囲で自分のものにする」っていうことにつながっていて、決して作品に描かれている世界観やイデオロギーがそのまま白紙の子供に刷り込まれていくなんてものではなく、その子一人一人のある種の「抵抗力」が、自分で消化できるところまでセーラームーンを「ぐだぐだ」にしているってことではないか、みたいな話をしました。
 面白かったのは、役を割り振るときに悪役をやりたがる子がいないので、無理やり誰かにやらせる、のかと思いきや、やらせないんですね。そりゃ話もぐだぐだになるはずです。あと亜美ちゃんが人気っていうのも多くの人がいってたんですが、みんなが亜美ちゃんやりたいって時にはちゃんとじゃんけんで決めたり、自分も亜美ちゃんやりたかったけどもめたくないから譲ってまことちゃんにしてたとか、もめごとにならないよう、力関係に物を言わせないよう、配慮してる辺りが「女子」的なのかなと思いました。男子だと大体、「ばっきゃろーオレがライダーやるんだからお前怪人やれ」みたいな力関係で役割が固定しがちなような気がします。
 しかし、それにしてもオープニングが流れ始めたときの歓声は予想以上でした。歓声っていうか、自分の中の何かの引き出しがいっぺんに開いちゃった感じでした。