宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

小学校は授業参観、幼稚園はバザー

 というわけで、今日の午前中(から14時前にかけて)は、長男と次男の小学校と幼稚園をハシゴしました。
 バザーの用意があるかあちゃんと次男・三男は、最初から幼稚園へ行かなければならなかったので、小学校の授業参観(正確には「学校公開」)はとうちゃんだけで行き、バザーの店番がかあちゃんに回ってくる時間に、次男を遊ばせるために幼稚園へ移動、という流れでした。


 小学校の学校公開は、1学期も1回(平日の午前に都合が付けられたので)行ったので2度目ですが、今日は土曜日で、しかも全校すべて道徳の授業を見せる、プラス、その前後に大学の先生の講演会と、クラスごとに異なる普通の授業という、ちょっと特別の日だったので、おとうさんおかあさんの出席率が高かったです。
 僕は、講演はご遠慮して、道徳の授業と、次の(ウチの子のクラスは)算数の授業の半分過ぎまで参観させてもらいました。


 これで福岡の小学校の時と合わせて授業参観は3回目ですが、いやー、今どきの小学校っていいね!と、思わず安直に言いたくなるくらい、僕にとってはどちらの小学校の授業参観も、印象よかったです。
 まず、単純に、授業のやり方が、授業の進め方、教材等含めて、僕が体験してきたものと比べてほんとに工夫がなされていて、楽しくメリハリつけながら勉強できるようになってます。
 あと、これはある程度地域間・学校間の格差もあるんでしょうけど、福岡でも今の三鷹でも、廊下の幅が教室に近いくらい広くて、廊下というより、そのクラスの子がいろんな作業をしたり、あと図工や自由研究等の成果を展示したりできるようなオープンスペースになっているのも、すごく感じがいいです。
 今の三鷹の学校では、廊下スペースと教室スペースの間の壁も一切なくて、ロッカーとかである程度パーテーションされてるだけなので、隣のクラスどころか、隣の隣のクラスの先生や子供たちの声まで聞こえるんですけど、慣れちゃえばどうってことないみたいですし、先生たちは、その状況でも目の前の子供たちの関心を引き付ける努力をしっかりしてくれているように見えます。
 いや、実際、福岡の小学校の時も、今どきの先生は授業うまいなあと思ったんですが、1学期、今のクラスの国語の授業を見に行った時は、ちょっと感動するくらい、授業がよかったんですよね。隣のクラスが先生のあとについて反復する形で全員で音読している、教科書で2ページくらいの文章を、全員で大きな声でノリノリで暗唱してるんですよ。
 時々こわい顔して、締めるとこ締める、みたいな感じじゃなくて、明るさとメリハリで、子供たちを引っ張ってるんですけど、「全体」をうまく「まとめる」だけじゃなくて、終始教室の中を動き回って、さりげなく注意力が落ちてる子の近くに行って、周りの子に分かるように叱ったりせずフォローする、みたいな、目の行き届き方も素晴らしく、僕より多分年下の女性の先生なんですが、何者だこの先生、ていうかちょっと弟子入りしたいくらいだ、とか思い、あとで、かあちゃんから、去年生まれた子も含めて二人の子育てをしながら今の仕事をされてると聞いて、ほとんど畏怖の念を抱いたのでした。
 ウチの子は、基本的に好きなことにはものすごく集中するものの、興味のないことはまるで上の空みたいなんですが、今の先生のことはすごく好きで面白いと思ってるみたいで、実際授業を見ていても、先生の話にひきつけられてるんですよね。


 で、まあ、今の担任の先生は、やっぱりかなりすごいレベルのような気はするんですが、しかし、隣や隣の隣のクラスの様子をちらちら見ている限りでも、別に「平均値」的な先生のレベルでも十分、僕から見るとすごい。
 さっき触れた学校の空間の使い方や授業手法や教材の工夫は、ある程度全国的に規格化されたものでしょうから、僕が小2だった1978年から32年後の今、明らかに小学校2年生に対する公立学校の教育の水準は上がってるんじゃないかという気がしてきてしまいます。もちろん、小中学校でも地域の教育委員会単位での方針の違いや、単純に「土地柄」の違いなどもあるんだろうとは思いますが、運動会とかに出ていても、やっぱり小学校って、全般的にはよくなってる気がしてしまうんですよね。


 僕自身、大学で教師をしていますが、大学というのは教員免許なしで教員になれてしまう特殊な学校ですので、教育というものの原理や理念、そして現状認識や教育技術、そのいずれについても体系的に学んだことがありません。
 初等教育の現状について一貫して学問的な水準の状況把握をしているわけでもなく、普通に、それこそ新聞・テレビ・ネットに上がってくるニュースの類から断片的に、今どきの小学校ってどんな恐ろしいことになってんだ?っていう印象しかなかったんですが、やっぱり、いじめや学級崩壊が報じられる時の小学校のありようって、今の小学校の一般的なあり方を表象したものではないんじゃないかという気がします。


 にもかかわらず、いじめや自殺の問題が報じられる時には、そこに現在の学校全般が抱えている問題が「集約」されているかのように論じられることが多く、それに対するネット上の反応も、基本的に、自分たちの、下手すると20年以上前の個人的な体験をいきなり一般化し、その一般化された自分の体験から来る学校イメージがよいものの場合は、いかに現状がひどくなっているかという議論に流れ、逆に悪いものの場合は、それ見ろ学校っつーのはこんなにひどいとこなんだよ、という議論に流れる、というパターンが圧倒的に多いように見えます。
 たとえ2ちゃんやツイッターのような敷居の低い気楽な場でも、やっぱりわざわざ何かについて物申したくなるモチベーションは、「不満」であることが多いので、自分の体験した学校や、自分が今の学校はこう堕落したと思っているところのイメージの学校に対して、不満のある人の意見の方が、ネット上では多数派になってしまう傾向があるように思います。


 でもですね、そんな状況の中、大多数の小学校の先生は、僕らが小学校の時より、はるかによくがんばってるんじゃないかという仮説は成り立つと思うんですよね。
 実際、モンスターペアレントみたいな人も増えてはいるんでしょうから、それへの対応で結果的に「鍛えられて」しまう側面も含めて、今どきの学校の先生は、疲弊しながらもがんばってくれてるんじゃないか。
 そこをまずちゃんと評価するような報道や、研究の成果が、もっと公の場に上がってきてほしいなという気がします。僕みたいな素人の、それこそ個別の事例から来る印象論じゃなく、いやほんと、全般的にはよくなってますよ、っていう検証がされているものが。
 あるいはせめて、現在の学校について報道したり個人的に物申す自分の、立場と視野の限定性を、ちゃんと意識した留保のある報道や発言が増えてくれるだけでも、学校現場で頑張っている先生たちのストレスを軽減して、ひいては子供たちのストレスも軽減されるんじゃないかな、という気がします。
 もちろん、学校空間において教師は権力者なのだから、外部から厳しい目を注いでおかないとダメなのだ、みたいな考え方も必要だとは思うんですが、そればっかりになるのはちょっとね、と思うのです。餅は餅屋、的な素朴な敬意、みたいなものも、必要なんでは?みたいな。


 …うーん、何だかおおげさな話になってしまいましたが、要は、自分の子が行くようになったので行ってみたら、今の公立小学校って、恐れていたのとは違って面白いじゃん!って思ったのを、お伝えしたい、自分が見ている範囲ではあまりにそういう話が見当たらないので、そういうことを言うやつがいてもいいんじゃないか、っていうお話でした。