昨日の話ですけど。
あこがれ・理想の〈世界〉をつくるメディアのお話は昨日でいったん締め。先週の終わりにテレビと映画の違いを、どこでどんなふうに見るかも視野に入れて書いてもらったんですが、今週は最初に、それを思い出してもらいつつ、テレビの「アイドル」と映画の「スター」が違うものだとすればどう違うかを書いて話してもらいました。
いろんな対比が出たんですが、その上で、ブーアスティンの『幻影の時代』における「英雄から有名人へ」の議論を簡単に紹介し、さらにベンヤミンの「複製技術時代の芸術」における〈アウラ〉とその凋落をめぐる議論を詳しく紹介しました。
で、ベンヤミンにおいては、〈アウラ〉の凋落において最も大きな役割を担うメディアの一つが映画なわけですが、戦後日本におけるテレビはそれをさらに徹底して推し進めた側面がありますよね、ってことで1959年の皇太子御成婚パレード中継の話とちょっと映像をお見せしました。皇族のクローズアップ映像を大量に撮影し、その複製映像を1000万台以上の受信機に配信することは、要するに皇族が持っていた〈アウラ〉を徹底的に崩壊させる行為なわけです。下手すると皇族の映像に多くの視聴者が「飽きる」という、戦前・戦中には決して許されなかった危険性がそこにははらまれていて、「大衆天皇制」はその危険性を抱え込んで成立しているんだと思うんですね。
で、そんな話をした上で、さっきの映画「スター」とテレビ「アイドル」の対比を考えると、今日の映画はテレビとの対比において、むしろ〈アウラ〉の残滓のようなものを保存するメディアとして、受け止められているんじゃないでしょうか、つまり、メディアの持つ役割はメディアの特性に即して不変なのではなく、それが置かれている歴史・社会的状況の変化とともに変化しうるんじゃないでしょうか、とまとめてみたのでした。
ベンヤミンが戦後も生きていたらテレビをどう論じただろうかというのは、ベタですがきちんと考えてみたいテーマです。ていうか、そんなのちゃんと考えてる人はたくさんいるんでしょうけど、今回はそこまで勉強できませんでした。
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