宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

今日の寝る前の本

 金曜日に『からすのパンやさん』といっしょに幼稚園から借りてきたこちら。

 人気イラストレータいもとようこの絵なんですが、絵本としては…。
 朝パパとママが些細なことでケンカになり、びっくりしたこぶたの主人公が、友達のウサギやリスやたぬきに話すと、おとうさん帰ってこないかもだの、おかあさん家出しちゃうかもだの言われ、ウチの子になりなよと次々に言われるんですが、人参食べられないからとか木に登れないからとかおなか鳴らないからとか言ってると、心配してるのにわがままだとか言われ、しょんぼりしてるとパパが帰ってきて、ママも普通に家にいることがわかって、パパがママにあやまって安心しておしまい、よかったね、というお話。
 うーん、つ、つまらない…。親が身につまされるだけじゃん…。子供もそれなりに楽しそうに聞いてましたが、自分で絵を見ながら話を聞きながらあれこれ言いたくなる細部がほとんどないんですよ。主人公が帰ってきたパパを引っ張って家に帰るとき、パパの帽子が飛ぶとこくらい。文章表現にも全く遊びや工夫がない。「両親がなかよしだと幸せ」というイデオロギーを絵解きしてるだけなんですよね。子供が自分で主体的に絵本の中の世界を読み解き聞き耳を立てる楽しみがないわけです。
 そのことは、物語にも同じ形で現れていて、この主人公には全く主体性がなくて、自分では何も考えられず何もできず、ただおろおろしてるだけ。たまたまパパとママが仲直りしてくれたから最後安心したわけですが、もし仲直りしなかったらどうすんだこの子は。朝のことを謝るパパは、ただ今朝は機嫌が悪かったからとしか説明もしないし、ママも何も言わずニコニコしてるっつーのもなんだかなあ。結局親ってのはわけも分からず機嫌が悪くなるものだし、そのことについて子供はなぜ機嫌が悪くなったのかなんか知る必要もないし知りたいとも思わないもんだってことでしょ。で、そんな「無力な子供」観は、読み聞かせる親に対して、子供っつーのはそういう無力なものなんだから、とにかくお前らがしっかりしとけ、っていう教訓を押し付けることにもつながってるわけです。しかも途中に、よそんちの子にはなれないって話が入るもんだから、子供は生まれた家が不幸せならもうどうしようもない、みたいなニュアンスになっちゃってるわけで。
 子供の前でケンカなんかしないほうがいいに決まってるし、もしやっちゃったらちゃんと仲直りするところを見せた方がいいってのも正論です。ウチもたまにやっちまったときは、後で子供に謝るし仲直りしたことをアピールしますよ。でも、ただ「機嫌が悪かったから」じゃなくて、「体が疲れてると機嫌も悪くなっちゃうもんじゃん?」くらいの説明はするし、何よりウチの子はケンカしてる最中にワンワン泣きながら「ヤメロー」って怒りますし、こっちが説明する前になんでケンカしちゃったのかどんどん聞いてきますよ。もちろん、そんなふうに表現できる子ばかりじゃないのも事実でしょうけど、よっぽど子供に自分で考えさせない育て方をしない限り、その場で「ヤメロー」とか言えなくても、一生懸命自分なりに、何でこうなるんだろう、自分はどうしたらいいんだろうと、考えられるようにはなるんじゃないのかなあと思います。その方が「いい」っていうのも一つのイデオロギーに過ぎないのは確かでしょうけど、僕はそっちを選びます。
 って思わず子育て論みたいになってしまいましたが、子供自身が他者や世界と関わっていく力を信じていないと絵本の表現まで読者の読む力を誘い出さないものになってしまうという例だろうと思います。実際には、こういう絵本は世の中にたくさん存在するんでしょうし、戦前の絵本なんてほとんどこんなんばっかですけど。
 ま、こういうのも自分で手に取って持って帰ってきて、なんだか知んないけどすぐに飽きる、みたいなことを繰り返して、読者として成長していっていただければなと思った次第であります。