宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

比較メディア文化=メディア文化概論の1回目

 今年度1学期の私のメインの講義が始まりました。7時限。終わると9時10分なのに受講者は100名以上。久しぶりにやるとちとしんどかったんですが、しばらくすると慣れるはずです。
 今年度から新しいカリキュラムが始まっていますが、それが適用されるのは新入生だけで、2年生以上は彼らが入学した時のカリキュラムが卒業まで適用されます。つまり旧カリキュラム生が在籍できる向こう7年間は、旧カリと新カリが並行して存在することになるわけです。
 で、教員の数が倍になるわけではありませんから、多くの科目は、そのままの科目名称で残ったり、読み替えと言って、新カリと旧カリでは名称が違うが中身は一緒、という状態になります。もちろん、旧カリにしか存在しない科目、新カリにしか存在しない科目もありますし、新カリで名称が変わったものは、内容も若干そちら寄りにシフトしていたりします。
 旧カリの「比較メディア文化」は選択科目の一つで、要するにメディアと文化の関わりを比較という方法をもって考えていればよかったわけで、題材はかなり融通が利いたんですが、新カリでは1年生から履修できる選択必修の概論科目になったので、若干カリキュラムの中での位置付けが基礎的なものになっています。
 つーわけで、一昨年はマンガの話ばっかりしていた「比較メディア文化」も、今年は「メディア文化概論」寄りに、メディアと文化の関わりをなるべく包括的に、しかも1年生でも入って来やすい形で論じることになります。
 しかし、ま、みなさんご存知のように、私、今、ほとんど新しい勉強をする時間がないわけです。大学教員にあるまじきことですが、こういう授業をするにあたって、あらためて、今日のメディア論の先端的な水準を体系的に勉強しなおした上で、初学者への手引きを考える、という準備ができなかったのであります。しかも、もともと比較文化→地域研究→表象文化論という学問的根無し草として育ってきたものですから、そもそもメディア論の体系的な勉強自体の水準が大学で教える上では合格/不合格のボーダーライン上みたいな感じなわけです。
 さてこれは困った、ということで、メディア研究者としてはC級でも、大学で授業をすることについてはそれなりのレベルに行っている俺、という勝手な自己暗示の下に、去年「日本の大衆文化論」で実験した、200人を超える講義であろうとがんがん学生に話を聞いて回るというスタイルを採って、学生さんにネタと視点を提供してもらおうではないかということにいたしました。
 あんまり講義計画を厳密に立てず、おおまかな枠組として三つくらいテーマを決めておいて、学生さんからの意見や、課題への回答から、こちらが話すトピックを決め、その話の中に、メディアを考える上での基本的な概念や理論、主な固有名詞などを織り込んで行こうという趣向です。かのマクルーハン様も『メディア論』の中でこんなふうに言ってることですし。

メディアの研究はただちに知覚の扉を開く。そして、ほかならぬこの分野では、若い人たちがトップレベルの研究活動をおこなうことができる。教師はただ学生にできるだけ包括的な項目に当たるように仕向けさえすればいい。どんな子どもでも、自分の友人や仲間の生活や仕事を形づくる上で電話やラジオや自動車がどういう効果を及ぼしているか数え上げることができる。メディアの及ぼす効果を包括的に数え上げれば、認識と探究の上で多くの思いもかけない通路が開けてくる。(マーシャル・マクルーハン『メディア論』みすず書房、1987年、p.鄽)

 ま、実際、もともと、今日は19世紀末の話、今日は20世紀初頭の話、今日は戦時期の話、みたいなメディア史的な組み立てだったり、今日は電話の話、今日は映画の話、今日は新聞の話、みたいな主なメディアごとにやっていく総花的な組み立てだったりするのは、いかにも「概論」ぽくてつまらんなあというのもあったわけです。
 そこで、今年度は、「メディア」が「文化」と深く関わってるのは確かだとして、その「文化」のうち、自己認識・自己表現の方法、ってとこと、世界認識の方法ってとこに絞り込んで、〈私〉をつくるメディア、〈世界〉をつくるメディア、〈私〉と〈世界〉を関係づけるメディア、という三つの視角でやっていってみようかなと思っています。
 今日はとりあえず、マクルーハンの「メディアはメッセージである」のお話をして、マクルーハン的な融通無碍な「メディア」概念に当てはまるものをみなさんに考えてもらいました。また、「文化」概念の多重性みたいなお話も簡単にした上で、〈私〉の私イメージや私物語をつくるメディアとして何がありますかね?というところまで行きました。ヒントにしたのは今熊本市現代美術館で大々的な回顧展をやっている森村泰昌の自伝の冒頭に置かれた次の一節。

 自分のことを書くというのは、虚実の入り混じった行為である。嘘を書くから「虚」であるというのではない。ここに書かれたことは、「ほんとうのこと」ばかりである。でも私は何十年と生きてきたので、人生のすべてを記録することは、すでに不可能な状態になっている。それで適当にいくつかの「ほんとうのこと」を選びとり、並べてみることになる。言ってみれば、長いこれまでの人生を編集して、そのダイジェスト版を作るわけである。
 このとき、どんな思い出の断片を取り出し、どんな要領で組み合わせるかによって、さまざまな種類の「自伝」ができてくる。できあがったものは、すべて真実なのだから「実」であるが、編集のときの取捨選択の操作次第で、極端に言えばどんな人間像だって作り出せる。そういう意味では、「自伝」なんてものはどれもこれも「虚」つまりフィクションにすぎない。(森村泰昌『芸術家Mのできるまで』岩波書店、1998年、p.3)

 〈私〉のことを私自身が理解するにしても、他人に伝えるにしても、私は何らかの形で〈私〉の〈人生〉を〈編集〉せざるを得ないわけですが、その道具としてのメディアにどんなものがあるでしょう、というお話です。
 授業終了間際に、受講者のみなさんに、ばばばっと思いつくものを挙げてもらったんですが、当然のように、「写真」とか「日記」とかが出るだけでなく、「保険証」とか、「(ケータイ)電話の履歴」とかも出てきて、なかなかいい感じ。次回はこの辺からどう展開しましょうか。

メディア論―人間の拡張の諸相

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芸術家Mのできるまで

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