宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

さきほど大阪から福岡に帰りました。

 米沢さんがお亡くなりになったことは、ちょうど飛行機に乗る直前に京都精華大学吉村和真さんから電話をいただいて知りました。機中、いささか呆然としながら帰ってきて、先ほどからこのことに触れたマンガ研究・評論関係のブログを読んでいました。
 米沢さんとお会いする機会は、基本的にマンガ学会のイベントやその後の打ち上げなどに限られていて、語るべき個人的な思い出のあるような間柄ではありませんでした。もちろん、評論・研究のお仕事には触れていますし、実はまだ僕がどこの馬の骨か分からなかった頃、夏コミ開催中にコミケ代表としての米沢さんにインタビューをさせてもらったこともあります。その時の取材は結局、僕の力不足もあって、うまく形にすることができなかったんですが、コミケ終了後の反省会にも参加させてもらい、米沢さんの凄さを垣間見させてもらったのが、僕にとって一番印象的な記憶です。
 マンガ学会の立ち上げのあたりで、僕のことを認識してもらえるようになってからも、僕の書いたものや学会での発表などについて、何か記憶に残るようなコメントをいただくことはなかったです。米沢さんも審査員である『アックス』のマンガ評論新人賞に、規定枚数オーバーの松下井知夫論を送り付けてしまったとき、賞の講評の中で少し触れてもらったぐらいだと思います。マンガ学会の立ち上げ準備の時、それこそまだどこの馬の骨状態の癖にえらそうな口をきく東大の院生、というふうに最初認識された可能性が高いので、うるせーやつ、くらいに思われてるのかな、と思っていました。この人と、親しく付き合えるようになることはないのかもな、とさえ、正直言って、思っていました。
 ですが、以前、「昭和50年代のマンガ批評、その仕事と場所」という論文を書いたこともあり、いずれそう遠くない将来に、70年代から80年代前半にかけて、コミケや「迷宮」の周辺にいた方々にまとまった形でインタビューをさせてもらえたら、とは、かなり真剣に考えていました。米沢さんにも、その当時の仕事について正面切ってとことんお聞きしたい、と勝手に思っていました。その希望を伝えることもできないうちに、その可能性がなくなってしまったことが、残念です。というか、こんなことがありうるなどとは全く思っていなかったので、本当に呆然としてしまいます。そして、いつでも話ができると思っていた人が、突然いなくなってしまう可能性は、誰にも等しく開かれていることを、改めて思い知らされ、少し、焦っています。もちろん、書かれたものは残り、それを読み返すことはできます。おそらくこの先、何度も米沢さんの名が記された書き物を読むことにはなるでしょう。しかし、疲れと高揚感の余韻が残った夏コミ終了後の反省会で、延々と続くスタッフからの「反省」や「批判」に一つ一つ、一向に調子を変えることなく淡々と、飄々と、ひたすら答え(ある意味では受け流し)続けていた、あの米沢さんの「存在」にもう一度触れることはないのだなと思うと、やはり悔恨としか言いようのない感覚に襲われます。ご冥福をお祈りします。