宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

昨日

hrhtm19702005-07-15

わが北九州市立大学文学部比較文化学科の「日本の大衆文化論」という講義(担当は僕ではなく、僕と同じく今年度本学科に赴任された日本近代文学の馬場美佳先生)のゲスト講師として、瓜生吉則先生においでいただきました。
瓜生さんは、マンガ論にご興味のある方にはいまさら紹介するまでもないでしょうが、「マンガの居場所」執筆メンバーの一人でもあり、メディア論の立場からすぐれたマンガ論と「マンガ論」論をいくつもお書きになっている方です。
と同時に、無類の「テレビスポーツっ子」でもあり、メディア、特にテレビの中でのスポーツの扱われ方についても深い関心をお持ちで、杉本清の競馬〈実況〉についての論文もおありです。
昨日の講義では、小倉競馬場のまん前にある大学での講義ということもあり、「テレビの中の〈声〉」と題して、まさにこの杉本清の競馬実況について、名レース=名実況の映像を多く見せながら、また寺山修司の競馬エッセイや古館伊知郎の〈実況〉との差異を視野に入れながら、熱弁をふるっていただきました。
テレビ〈視聴〉をめぐる議論は、しかし、しばしば〈視〉るメディアとしてのみ論じられがちなテレビを、〈聴〉くとはどのようなことなのかを、杉本清の〈実況〉のありようの検討を通じて浮かび上がらせていく、というご趣旨のご講義だったと思います。
そのなかで、競馬場という現場にいながら、なおテレビモニターに映る〈絵〉に〈合わせる〉という杉本〈実況〉の方法論の二面性が、単に〈現場〉の〈情報〉や〈雰囲気〉をそのまま〈伝達〉することが〈実況〉であり、またそれがたやすく可能だと考える楽天性からも、逆に単に〈視聴者の立場〉に立って、モニターに映るものについての、「一視聴者の代弁をすることのできる自分」の〈意見〉のみを語れば、それが〈テレビ的〉な〈実況〉だと考える傲慢さからも離れた、杉本実況特有の〈自立〉した〈魅力〉を生み出している、というご議論だったかと思います。
そしてそれを語る瓜生さんの語り自体もまた、杉本〈実況〉さながらの魅力を発していたことは言うまでもないでしょう。
そんなわけで、今日は、これからその瓜生さん接待シリーズの一環として、九州大学の院生さんたちと一緒に、YAHOO!ドームにナイターを見に行きます。いいでしょ?
では!