宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

なぜ名前を、顔を、忘れるのか−「君の名は。」と「この世界の片隅に」(1)

1.名前と顔
 なぜ、名前を忘れるのか。ついさっき別れたばかりの大切な人の名を。
 なぜ、顔を忘れてしまうかもしれないと言うのか。夫の顔を、3か月会えないというだけで。
 名前と顔は、人が人を、ほかならぬ「この人」と認識するための大きな手掛かりだ。
 その大切な互いの名前を、何かどこかわからないところから働く大きな力にかき消されるかのように忘れてしまう。その瞬間の圧倒的な焦燥感と喪失感。「えええええ」という声しか出ないような、「焦る」などという言葉ではとても収まりきらないような、胸をかきむしられるような感覚。
 「君の名は。」を何度見ても、私にとってこの感覚が薄れることはなく、なぜ、名前を忘れてしまうのか、という問いにとらわれてしまう。
 自分にも夫にも、水原とリンさんという「選ばんかった道」があったことを知りながら、それでもその夫に選ばれたことを受け入れたはずのすずは、「三月は戻れん」と告げるその夫の顔を、忘れてしまうかもしれんと言う。「この家に居らんと周作さんを見つけられんかも知れんもん」と言う。でも、どうして?すずが「ぼうっとしとる」からだとでも?
 この、すずの「顔を忘れてしまうかも知れん」という不安は、何なのだろう。「この世界の片隅に」を何度も見ても、この問いが消えることはない。
 こうして「君の名は。」と「この世界の片隅に」は、私にとって、一番忘れはいけないはずの大切な人を、どういうわけか忘れてしまう(かもしれない)不安と向き合う映画として、両者の間を行き来しながら何度も観てしまう作品になっている。
 この断片的なエッセイでは、それぞれ(おそらく)六度ずつ劇場で観たこの二つの作品について、DVDやネット配信で観るときのように、気になったところで再生を止めてメモを取る、という作業ができない視聴体験の範囲で、気付いたこと、考えたことを書き連ねてみたい。それを通じて、最初の問いに対するさしあたりの答えを、言うことができるような気がしている。


2.What’s your name?とYour name is….の間
 「君の名は。」の英語タイトルは「your name.」だ。
 なぜWhat's your name?(君の名は?)ではなくyour name.(君の名。)なのか。
 物語の冒頭、たがいの入れ替わりが起こり始めた時、瀧は三葉のノートに「おまえは誰だ?」と書いている。Who are you?であって、What's your name?ではない。
 三葉の体で目覚める直前、瀧は夢の中で三葉に「覚えて、ない?」と聞かれ、「名前は、三葉!」と言われている。次の日三葉はユキちゃん先生に「宮水さん、今日は自分の名前覚えてるのね」と言われているから、三葉が「宮水さん」であることも知っているだろう。もし仮に、夢に出てきた女の子とこの体の持ち主が同一人物だと最初は分かっていなかったとしても、テッシーとさやちんと接する中で「みつは」と呼ばれていたことは間違いないだろう。だから瀧にとって「宮水三葉」という名前は尋ねるまでもなく分かっていて、「おまえは誰だ?」で問いたいのは、その名の主、この体の持ち主が、どのような人間なのかということのはずだ。
 名前が分かったところで、その人がどういう人なのかは分からない。正確には、どういう名前を与えられた人なのかということ以外は、分からない。固有名は、AさんをBさんと区別するための最低限のラベルのようなもので、Aさんの様々な属性を教えてくれるものではない。
 入れ替わり始めたばかりの頃の三葉と瀧にとって、大事なのはそれぞれがどういう女の子/男の子かということであって、その理解の深まりが、お互いへの思いを強めていくことになる。
 だが、だとすれば、名前なんか、本当はどうでもいいのではないか。十分お互いの生活と性格を理解しあい、ひかれあうようになった二人にとって、なぜ名前は「忘れちゃだめ」なのか。そして私たちはなぜ、最初はそれだけ知っていても仕方ないことだったはずの名前を忘れることが、何よりも重大で深刻な事態だという感覚を、共有できてしまうのか。


 「カタワレ時」のご神体の山頂での対面と別れの後、「あの人」の名前を忘れ始めた三葉は、父を説得しに行くために走っている途中で派手に転んでしまう。忘れないように名前を書いておこうとあの人が言った手を開くと、そこには、名前ではなく「すきだ」と書かれている。
 この作品屈指の胸キュンポイントで、私たちは、差出人の名も宛名もない、ただ思いだけが書かれたメッセージを目にしている。固有名より「すきだ」が残ること。差出人も宛名もない感情。瀧にとって何よりもまず届けたかったのは、「瀧」という名前ではなく、「すきだ」という気持ちだったのだ。
 瀧が「すきだ」を優先したのはもちろん、もう名前を忘れるはずがないと思ったからだろう。糸守町がすでにないことを知り、スマホから三葉の記録が消え、三葉の名前も忘れてしまったあと、ご神体にたどり着いて三葉の「はんぶん」を体に入れて、三葉の記憶を追体験して、そしてついに対面したのだ。また忘れてしまう可能性など思いもしなかったかもしれない。にもかかわらず、カタワレ時が終わった後、またしても忘れてしまう。だから焦る。圧倒的な喪失感に見舞われる。
 この時、瀧は「大事な人、忘れちゃだめな人、忘れたくなかった人」と言い、「誰だ、誰だ、誰だ」と言い、「君の、名前は」と叫ぶ。新海誠自身が執筆した小説版(新海誠『小説 君の名は。角川書店、2016年)は、このセリフを「君の、名前は?」と疑問形で記している。
 三葉が、町長である父を説得しに行くために走りながら、瀧と同じように「大事な人、忘れちゃだめな人、忘れたくなかった人」と言い、「誰、誰、君は誰」と言い、「君の、名前は」と叫ぶところも、小説版では「君の、名前は?」だ。
 だが私には、この二人の時間差で繰り返される「君の、名前は」という叫びが、忘れるはずのない大事な人の名前を自分の体の中から引きずり出すためのもののように聞こえてしまう。文字で書くなら「君の、名前は…!」とするのがふさわしいような、続けてその名が出てくるはずだという願いを込めて発せられた叫びであり、それでもそのあとにその名は出てこないという絶句でもあるように聞こえてしまう。
 つまり、この、最初に二人が、それぞれに発する「君の名前は」は、What’s your name?ではなくYour name is….を意味するという解釈が、作者の意図とは違っていても、その表現のありようによって、可能であるように思える。
 そしてもう一つ、二人が「君の、名前は」と声を出す場面がある。いうまでもなく、この作品のラストシーンだ。
 須賀神社の階段でいったんすれ違った後、振り向いて瀧が声をかけ、三葉が答え、そして二人で声を揃えて、「君の、名前は」と言うとき、これが疑問文ではないことはかなり明らかに思える。
 大粒の涙をこぼしながら笑う三葉のその表情は、ご神体の山頂でついに瀧と対面できた時のそれを反復している。この泣き笑いは、電車で瀧に会う前、三葉が「私たちは、会えば絶対、すぐに分かる」と信じていた(そして電車で会った時には期待外れに終わった)その思いが、ようやく実現した安心と喜びの表れだろう。ここで二人はもう、お互いの名前を問わずにいられない切羽詰まった心情にはなく、お互いの名前を問わずとも、お互いが「あの人」であることは分かっているという安心感に包まれていると思える。
 そして何より二人の声のイントネーションが、語尾が上がる疑問文のそれではなく「君の、名前は…」のあとに「三葉」「瀧くん」と続いても自然に思えるそれになっている。実際、この場面は小説版でも次のように記されている。


 いっせーのーでとタイミングをとりあう子どもみたいに、私たちは声をそろえる。
 ――君の、名前は、と。(『小説 君の名は。』pp.251-2)


 劇場販売パンフレットのvol.2で、新海は公式ホームページで募集した多くの質問に答えている。その中で、「何でタイトルに「。」をつけようと思い立ったんですか?」という質問に次のように答えている。


 「君の名は」で途切れてしまう物語でもあるし、名を問う疑問系の物語でもあるし、名を知っていると確認し合う物語でもあります。そういう複数の意味を「。」に込めました。個人的には、今まで作ってきた作品の集大成のような気分もあったかもしれません。(『君の名は。Pamphlet vol.2』東宝(株)映像事業部、2016年、p.37)


 「君の名は」と「君の名は?」と「君の名は…。」の三つの意味が、「きみのなは」という発声に重なり合う物語。それが「your name.」だというのである。
 初めは別々の場所と時間に発せられた二人の声が、最後に同時に重ね合わせられ、そしてその重ね合わされた声に複数の意味が重ね合わせられる。離れている/いたものを重ね合わせること。新海誠作品に繰り返し現れるモチーフが、ここにも現れている。


3.重ね合わせること(1)
 つながってるけど、離れてる。離れていってしまうけれど、つながっている。思いは、言葉は、共有されているけれど、お互いそれは分かっていない。
 新海の最初の作品「彼女と彼女の猫」(1999年)では、「彼女」と「彼女の猫」の「この世界のことを好きなんだと思う」という言葉(それを乗せた声)が、最後に重なり合う(同時に観客に聞こえてくる)。「彼女」と「彼女の猫」は人間と猫であって、言葉によるコミュニケーションを取れない。だが、物語は終始、「彼女の猫」が人間の言葉(ここでは日本語)で行う語りとともに進行する。「彼女の猫」に好意を寄せる猫「ミミ」の言葉は画面に現れる文字で表現され、声として観客に聞こえることはない。「彼女」の声も同様だ。
 観客は、この物語を、「彼女の猫」の視点から、もっと言えば「彼女の猫」の内側から、世界をのぞき続けるように語られるものと理解する。だが、その理解は、「長い電話の後、彼女が泣いた」後、破られる。「彼女の猫」の声で「彼女の声が聞こえる。誰か、誰か、誰か…」と彼女の口調を模したように語られているその時、不意に「誰か助けて」と女性の声が聞こえてくる。薄い皮膜が破れて、観客がいきなり「彼女」の声を自分の耳で聞いたように、「彼女」の声が聞こえる。「彼女の猫」の主観のフィルターの外に、「彼女の猫」の内面からは独立して生きている「彼女」の存在を、観客は感じとる。
 その上で、最後に、「彼女」と「彼女の猫」の「この世界のことを好きなんだと思う」という二つの声が重なり合うのを聞く。だが「彼女」と「彼女の猫」は、お互いにそのことを知らない。どちらの言葉も肉声として発せられたものではないし、「彼女」が猫の言葉を解するようにも描かれていない。二つの声が重なり合うのを聞いているのは、あくまで観客だけだ。「彼女」と「彼女の猫」は、思いを共有している。だが、そのことを知らない。
 新海の出世作となった「ほしのこえ」(2002年)でも、この、最後に声が重なる演出が繰り返されている。ここでも、「ここにいるよ」という二人の声が、重なり合っているのを聞くのは、観客であって、二人ではない。
 離れているのに、通じていて、通じていることを、たがいに(信念としてはともかく、少なくとも確定的には)知らない。この二重性の切なさが、新海作品のセンチメンタリズムの中核にある。観客はもちろん、「通じているのに、離れている」と受け止めてもいいし、「離れているのに、通じている」と受け止めてもいい。新海は、人間の関係性とはこういうものだという認識を提示し、それを観客がどういう感情で受け止めるかは観客に委ねている。そしてその根本的な認識自体は、「君の名は。」においても変わっていないはずだ。

 
4.名前の働き
 三葉の入れ替わりの相手が瀧になったのはなぜかという問いがあるようだ。いくらでもいる「東京のイケメン男子」の中で、なぜほかならぬ瀧だったのかと。
 しかし、その答えは映画を観る前からポスタービジュアルによって示されている。二つに割れた彗星の向かう先に、瀧と三葉がいるその絵は、元は一つだった彗星によって指し示されたのがこの二人だったとか、二人が元は同じところからやってきたことを意味しているとか、そういった解釈を可能にする。
 この解釈は、本編の中でも裏打ちされる。
 ご神体の前で三葉の「はんぶん」としての口噛み酒を飲んだあと、足を滑らせて上を向いた瞬間、ご神体に描かれた二つに割れる彗星の絵を目にし、倒れた後頭部を打ち付けて気を失ったその夢の中で、水に落ちた瀧は、三葉の誕生から今までを追体験する。そのとき、瀧が腕に巻いていた組紐が、尾を引いて落下する彗星のイメージへとつながり、さらに精子のイメージにつながり、三葉と母を結ぶへその緒のイメージへと、赤みを帯びた柔らかく細長い流線というフォルムを共有しながら、連続的にイメージが変容していく。
 その過程で、組紐が彗星に変容する途中、一瞬、龍を思わせるフォルムになり、龍の声のようなものも聞こえてくる。へその緒が切り離されて三葉が一人の人間として産み落とされる前、彗星の姿を取っていた生命の原型が、龍のイメージとムスビつき、さらに水のイメージも伴っていたことが重要だ。いうまでもなく、「瀧」という字は、水と龍の組み合わせで成り立っている。「宮水三葉」という名前も、「水」という字と水を必要とする植物の一部である「葉」の字が含まれ、「立花瀧」という姓の方に植物の名を含む名前と、対をなすような親近性を持っている(この瀧の追体験のシーンについては、伊藤弘了「恋する彗星――映画『君の名は。』を「線の主題」で読み解く」http://ecrito.fever.jp/20170123213636ですでに同様の指摘がなされている)。
 瀧と三葉は、もともと他人ではない。同じ彗星のカタワレ同士なのであり、その二人が千年を超える昔、最初に彗星のカタワレが落下したご神体の山頂で、カタワレ時に対面(再会)するのは、必然なのである。
 ここでもう一度、固有名とはどのようなものかについて確認しておこう。
 固有名とは何かについては、言語哲学分析哲学の世界で議論が積み重ねられてきているが、ここではここでの議論に必要な限りで大まかな説明に留める。
 「人間」は今現在だけでも何十億人といるが、「宮本大人」は過去から未来にわたって一人しかいない。つまり、「人間」は、その定義に当てはまりうるすべての個体の集合(類)の名前だが、「宮本大人」は単一の個体しか指し示さない。
 また、「宮本大人」は「宮本大人」の様々な性質の記述に置き換えてしまうことができない。
 「宮本大人」の性質には「1970年に和歌山県で生まれた」とか「男性である」とか「漫画史研究者である」とか「『××』という論文の著者である」とかいった様々な要素が含まれている。こうした「宮本大人」の属性に関する記述をすべて総合した略語が「宮本大人」であるとするのが固有名の記述説と呼ばれるものだ。しかし、だとすれば、「宮本大人は○○だ」という文は、「1970年に和歌山県で生まれ、『××』という論文を書いた男性の漫画史研究者は○○だ」と言い換えて問題ないはずだ。
 だが、もし、実際には宮本大人は「××」という論文を自分で書いてはおらず、他人に代筆を頼んでいたということが後で分かったとしたら、「1970年に和歌山県で生まれ、『××』という論文を書いた男性の漫画史研究者は、『××』という論文を書いてはいなかった」というような奇妙な文が出来上がる。私たちはふつうそんなことはしないで単に「宮本大人は『××』という論文を書いてはいなかった」というだけだ。
 固有名で名指される個体についての記述は、いずれも「そうではなかったかもしれない」という可能性を想定することができる。私たちは、例えば「桜木花道」という固有名を使って、桜木花道がハルコさんに出会わず、したがってバスケも始めなかったとしたら…、というストーリーを考えることができる。
 「桜木花道」が「湘北高校でバスケと出会い、チームメートに恵まれ、選手として大きく成長する人物」を意味する言葉ではなく、「湘北高校でバスケと出会い、チームメートに恵まれ、選手として大きく成長する」というような属性が備わる前の、いわば丸裸の、まっさらの、ただ「この人」と指し示すことしかできない個体に貼られた名札にすぎないからだ。先に、「宮水三葉」という名前が分かっただけでは、まだその「宮水三葉」がどのような女の子かは分からない、といったのはそういうことだ。
 固有名は、「ほかならぬこの人」を個体として固定的に指示しつつ、その属性については何も語らない。だから固有名は、その固有名で名指されるものが、様々な属性を帯びうる可能性、将来にわたってその属性が変化していく可能性に左右されることなく、変わらず「その人」を指し示し続ける。たとえば体形のような属性は、年齢などによって容易に変化しうるが、「(20歳の)宮本大人は痩せている」と「(40歳の)宮本大人は太っている」はいずれも真でありうる。瀧と三葉について言えば、例えばオープニング映像で示されているように、中2の瀧は三葉より背が低いが、すぐに背が伸びて、最終的にはだいぶ三葉より高くなっている。「瀧は三葉より背が低い」も「瀧は三葉より背が高い」もいずれも真なのだ。
 こうして、瀧と三葉がお互いのことを十分よく知ったうえで、なお、名前を忘れることに、絶望的な喪失感を覚え、私たち観客もそれに共感するのは、この、固有名が、その固有名で名指されるものの属性の変化に左右されることなく、変わらず「その人」を指し示し続けるという機能を、私たちがいつのまにか知っているからだということがわかる。長い時を経て容貌が変わり、声が衰え、性格もある程度変わってしまったとしても、名前さえ忘れていなければ、「その人」を見つけることができる。だが二人は、真っ先にその名前を忘れてしまうのだ。
 名前を忘れるということの深刻さは、固有名の働きから理解することができた。だが、私たちはついさっき、「瀧」という名前を「水」と「龍」の組み合わせからなるものだと分析し、そのイメージにおいて三葉と初めからムスビついていたのだと言ったばかりではないか。固有名がその個体の属性については何も語らないのだとしたら、このような分析は意味をなさない。
 漫画やアニメのキャラクターの名前は、しばしばそのキャラクターの属性や命運を示唆する意味を帯びていることがある。「平気の平太郎」とか「真直太郎」といった、キャラクターの特性をそのまま記述しているようなものから、「天沢聖司」と「月島雫」のような、ある程度の読み解きを必要とするシンボリックなものまで、それなりの幅はあるものの、「ほかならぬこの人」を個体として固定的に指示しつつ、その属性についても少しは語ってしまうような名前を与えられているキャラクターは枚挙にいとまがない。
 実際、現実にも親の期待など様々な「意味」を込めて名付けが行われることは多々あるが、現実には、その「意味」にその人の人生がまるで当てはまらないことも多々ある。しかし、特定の作り手の作為の産物としての漫画やアニメにおいては、そのキャラクターのこの部分については「そうではなかったかもしれない可能性」を持たない絶対的なものであるという属性を名前で示唆するということがありうる。「宮水三葉」と「立花瀧」の親近性もまた、その一例だと言えるだろう。
 だから、瀧と三葉が互いの名前を忘れるということには、属性の変化に左右されることなく、変わらずほかならぬ「その人」を指し示し続ける名前を忘れるということだけでなく、お互いの運命的なムスビつきをも忘れてしまうという意味が含まれている。事態は二重に深刻なのだ。それにしても、なぜ、そのような深刻な事態が起こるのだろうか。二人のムスビつきは、運命的なものであり、そればかりか、この後見ていくように、物語の中で繰り返される入れ替わりを通じて、さらに強固なものになっていっている。それでも、二人は互いを忘れる可能性の中にさらされている。


5.身体に宿る記憶
 小説版には、映画版にはない次のような記述がある。彗星が落下する日、三葉の体に入った瀧が、ご神体のある山頂に向かって自転車をこぐ場面で、瀧の疑問と認識が展開される。


 人の記憶は、どこに宿るのだろう。
 脳のシナプスの配線パターンそのものか。眼球や指先にも記憶はあるのか。あるいは、霧のように不定形で不可視な精神の塊がどこかにあって、それが記憶を宿すのか。心とか、精神とか、魂とか呼ばれるようなもの。OSの入ったメモリーカードみたいに、それは抜き差しできるのか。(『小説 君の名は。』p.184)

 
 三葉は、すくなくとも三葉の心のかけらは、今もここにある。たとえば、三葉の指先は制服の形を覚えている。俺が制服を着るとき、ファスナーの長さも襟の固さも、俺は自然に知っている。たとえば三葉の目は、友だちを見るとほっとする。嬉しくなる。三葉が誰が好きで誰が苦手か、訊かなくても俺には分かる。婆ちゃんを目にすると、俺が知らないはずの思い出までがフォーカスの壊れた映写機みたいに、ぼんやりと頭に浮かぶ。体と記憶と感情は、分かちがたくムスビついている。(『小説 君の名は。』p.185)


 このような語りの後、三葉が前日東京に行った時のことを、自転車をこぎながら瀧は「思い出す」。三葉の身体が覚えていることを、瀧の心がたどるのだ。映画版でも同じ場面で三葉の前日の行動の「回想」が挿入されるが、その時の三葉の内語が、三葉自身の声で聞こえるため、観客はなんとなくこの回想を三葉自身によるものととらえかねないが、映画版でもこの場面の状況を考えれば、これはやはり、三葉の身体が覚えていることを瀧がたどり直しているのだと分かる。
 身体は単なる乗り物で、心が操縦士である、というような人間観を「君の名は。」は取っていない。身体にもまた、記憶は宿っている。三葉と四葉が、口噛み酒を作る神事の際の舞は、そのことをよく示している。赤く長いひもの付いた鈴を振りながら踊るその舞は、はるか昔、彗星が二つに割れてご神体のある山頂と、糸守湖の場所に落下したことを表わしている。その少し前のシーンでおばあちゃんが三葉と四葉に、繭五郎の大火で記録文書の類は焼けてしまったが、「伝統」(的な儀礼)は残ると語っているように、文字は、言葉は、失われても、神事という身体技法の中に、記憶は残るのだ。
 したがって、瀧と三葉の「入れ替わり」という言い方は、必ずしも正確ではない。瀧の心が三葉の身体に入っているときも、三葉の身体は、三葉のものでもあり続けている。
 だが、入れ替わりが始まったころ、瀧の身体が覚えていることを三葉の心が知り、三葉の身体が覚えていることを瀧の心が知るというようなことは、ほとんどできなかった。制服のファスナーの長さや襟の固さを自然と覚えているといったことは初めからあったとしても、昨日一日の行動を思い出すなどということはできなかった。だからそれぞれの友達から前日の行動について聞いて驚き、入れ替わった時の記録をスマホに残すことにしていたのだ。
 瀧が、三葉の前日の行動まで思い出せるほど、深く三葉の身体に融合するようになったのは、言うまでもなく、三葉の「はんぶん」としての口噛み酒を飲んだからだ。そうしてすでに三葉の出生から今までの記憶もたどっているのだから、前日の行動を思い出すことができるようになるのも自然なことだろう。
 瀧と三葉の融合が進むこと、心と身体が深く強固にムスビついていくことは、しかし、自他の境界があいまいになっていくことを意味する。身体を共有し、記憶まで共有し始めたら、それはもう瀧と三葉という別の人間ではなくなっていってしまう。宛名も差出人もない「すきだ」が、本当に宛名も差出人もない自己愛の表明になってしまう。
 恋愛の成立は、二つの人格の融合・一体化を意味しない。瀧と三葉の関係が恋愛であるためには、瀧と三葉の入れ替わり・融合は、ある程度のところで止まらなければならない。
 相互理解の絶望的な困難、「ヤマアラシのジレンマ」に人類が皆さいなまれていることを前提に、強制的な融合として人類の補完が計画され、実行に移され、最終的にそれが様々な葛藤を経て拒絶される「新世紀エヴァンゲリオン」と違い、「君の名は。」において「補完」は物語の冒頭からどんどん進行し、三葉の死によって一旦停止した後、瀧が口噛み酒を飲むことでまた進行し、カタワレ時の終了とともに再び停止する。
 コミュニケーションを取ればとるほど相互理解が進むのは普通だろうという感覚が、エヴァと比べた時の「君の名は。」のリア充感につながっていることは確かだが、最終的に、「私たち、お互いのことを完全に分かり合えました」などというゴールはあり得ないし、もしそんなところにたどり着いたらそれはもやは二者間の恋愛ではない、という認識では共通している。別々であること、離れていることは、恋愛が成立するための必要条件なのだ。
 入れ替わりが終わり、糸守町の人的被害が最小限にとどまり、瀧と三葉が、お互いのことを、意識の上では忘れてしまった後も、身体に残った記憶がある。映画版では冒頭のオープニング前のシーンで示される「朝、目が覚めると、なぜか泣いている」様子、入れ替わりが終わって、二人がそれぞれ大学生、社会人になった後も、ときどき自分の手のひらを見つめている様子として、それが示されている。
 小説版では、さらに詳細に、三葉の身体が覚えていたことを、瀧の身体に戻り、三葉のことは忘れた後も、いつの間にか繰り返しているという記述がある。


 知らぬ間に身についてしまった癖がある。
 たとえば、焦った時に首の後ろ側を触ること。顔を洗う時、鏡に映った自分の目を覗き込むこと。急いでいる朝でも、玄関から出てひととき風景を眺めること。
 それから、手のひらを意味もなく見つめること。(『小説 君の名は。』p.232)


 ここで挙げられている瀧の癖は、すべて映画版の中でも描写されている。
 ただし、「焦った時に首の後ろ側を触ること」は、おそらく小説版を読まなければ気づかない何気ない動作で、私自身、このくだりを読んだ後、2回劇場で確認し直した。たしかに、奥寺先輩とのデートの時、山頂で三葉に「どう?」と言われた時、就活の面接の時、四ツ谷で奥寺先輩に会う時、うなじの辺りに手をやっている。だが、三葉が同じ動作をしているところは、見つけられなかった。DVD等で丁寧に確認すれば見つかるのかもしれないが、基本的に小説版を読まないかぎり、焦った時に首の後ろ側を触る三葉の癖が、いつの間にか瀧にうつっていることに気づくのは困難だと思える。
 だが、小説版には特に記述がないが、瀧も三葉も、もみあげの辺りに何気なく手をやる動作は数回ずつ描かれている。これが、どちらかの癖がうつったものかどうかは判断できない。
 また、これも小説版では表現できない、映画版ならではの身体的な融合表現として、口に出さない内語の声がある。場面として多いのは瀧が三葉に入っているときだと思われるが、おばあちゃんと四葉と一緒にご神体に口噛み酒をささげに行くとき、おばあちゃんに彗星落下の件を打ち明けても受け入れられなかったとき(「意外と普通なこと言うばあちゃんだな」)、自転車でご神体に向かうとき(「お前はあの時、俺に会いに来たんだ」)など、三葉の声で瀧の内語が表現されている。これについても劇場版第2弾パンフレットの中での一問一答の中で、予告編では三葉に入っているときも内語は瀧の声になっていたのに?という質問に、三葉の声にした方が自然だったと答えている。
 こうして「君の名は。」は、身体に宿る記憶という人間観を支えに、瀧と三葉が、それぞれ三葉でありつつ瀧であり、瀧でありつつ三葉であるという二重性を生きる物語になっていると言える。二人は、完全に一体化することなく、むしろ異様なまでに強い力で互いを忘れさせる力にさらされながら、一方でまた完全に互いの記憶を消し去ってしまうこともなく、重なり合いながら、離れ離れになっては互いを探し合う物語になっている。


6.それが時間、それが現実
 「君の名は。」は教育的なアニメである。時系列に関する私たちの記憶がいかに曖昧かに気づかせてくれるアニメなのである。
 時系列のズレ(「3年、時間がズレてた」)がカギとなっている物語は、一度見て、後から思い出すだけでは、どの場面が何月何日で、どの場面がどの場面につながっているのか、すぐには整理できない複雑な時系列で構成されている。見ている間はほとんど完璧なテンポの演出に乗せられてその時系列の「矛盾」(かもしれないもの)に気づけないまま、ラストまで駆け抜けてしまう。
 公開して間もなく、時系列の「矛盾」(に見えるもの)を整理する試みがウェブ上にいくつも現れたことをみても分かるように、後から思い返すと、「あれ?あれ?」となるところが多々ある。ある種の人々はその「あれ?あれ?」の時点で、その疑問点を「矛盾」の存在の根拠と断じてこの作品を批判したり否定したりする一方、ある種の人々は、どこが本当に矛盾していてどこが実は整合的なのかを、自分なりに整理しようという欲求に駆られてこの作品を何度も観ることになったと言えるだろう。
 この時系列の混乱についても、劇場版第2弾パンフレットで明解な回答が与えられている。それによれば、「2人の入れ替わりは同時に(でも3年ずれて)起きて」おり、三葉の最初の入れ替わりは2013年9月2日、瀧の最初の入れ替わりは2016年9月2日、2回目はそれぞれ2013年と2016年の9月5日、最後の入れ替わりは10月2日、「劇中で描かれなかった日も含めて、これが11回目の入れ替わり」だという。


 2013年のこの日、三葉は瀧としてご神体に口噛み酒を奉納し、2016年のこの日、三葉は瀧として奥寺先輩と翌日のデートの約束をしたのです。そして2013年10月3日、三葉は突発的に学校をサボって、東京まで瀧に会いに行きます。そこで中学時代の瀧に出会い、失意のうちに深夜帰宅し、おばあちゃんに髪を切ってもらったのです。2013年10月4日は、隕石落下の日です。これは本来の歴史(三葉が浴衣姿で彗星を見た歴史)と、リトライの1日(瀧が入れ替わった日)があります。それにしてもちょっと複雑ですよね。この映画で最も苦労したことの一つは、こういう複雑さをあまり観客に感じさせず、自然な感情の流れを伝えることでした。(『君の名は。Pamphlet vol.2』、p.41)


 昨年の9月ごろから現在に至るまで、検索サイトで「君の名は 時系列」で検索すると上位に来る、以下のサイトはいずれも、このデートの日を10月2日と推測してしまっている。


君の名は。時系列の検証から矛盾点を紐解く。」
http://loit.hatenablog.com/entry/2016/09/03/000009

「「君の名は。」とかいうゼロ年代エロゲーの時系列まとめ−【第1章】 複数世界線の採用」
http://miya38oscar.hatenadiary.jp/entry/2016/11/29/002858


 どちらのサイト主も、それぞれ非常に詳細な検討を行っているのだが、前者はデートや神事が平日に行われるのはおかしいという常識的な先入観にとらわれることによって(代々続いた神社の家が大事な神事のため平日でも学校を休むといったことは普通にありうることだし、デートについても理屈はいくらでも考えられる)、後者はタイムパラドックスの問題に過剰にこだわるうちに、デートの日の推定に失敗したものと思われる。
 劇中では、10月3日のデートの夜に、瀧が三葉に電話をかけ、しばらく呼び出し音が鳴っているショットの後、三葉のスマホが鳴るショットにつながる。しかし、電話はテッシーからのもので、この日は10月4日の彗星が落ちる祭りの日である。物語の冒頭で、三葉の身体で目覚めて、姿見の前で驚く瀧のショットのすぐ後に、翌日元に戻った三葉が朝ご飯を食べにくるショットがつながるミスリードがあるが、同様のミスリードがここにもある。普通に見ればデートの日=彗星が落ちる祭りの日、と思ってしまってもおかしくないのだ。上の両サイトはこのミスリードには引っかかっておらず、決して雑な整理をしているわけではない。
 私自身はと言えば、10月3日の電話と4日の電話が同日でないことには2回目か3回目の鑑賞で気づいたが、三葉がいつ髪を切ったのかがうまく把握できず、東京行きの日とデートの日がいずれも3日であることには新海の回答を見るまで確信が持てなかった。
 私は、こうした時系列の複雑さについて、新海はあえて語らないのかと思っていたので、パンフでかなり詳細な回答をしていたことに驚いた。これを踏まえて観れば、なるほどこの10月2日から4日までの時系列についてはこの設定が一番整合的だと言える。
 しかし、だとすれば、次のような問題が見えてくる。
 2013年10月2日の夕方、ご神体でおばあちゃんに「あんた、今、夢を見とるの」と言われた後、瀧は10月3日のデートの日の朝に目覚めている。瀧の身体では、2016年10月2日に三葉が奥寺先輩とのデートを取り付け、そのことを寝る前にスマホに記録しているから、瀧の身体が空っぽになる時間はない。しかし、瀧の身体で眠りについた三葉は、2013年10月3日の朝に目覚めている。三葉にとってはそれが自然だから何も疑問に思わなかったのだろうが、では、前日の夕方、ご神体で「夢を見とるの」と言われて瀧の心が抜けてしまった三葉の身体は、その後、山を下りてその日眠りにつくまで、どうなっていたのだろうか。瀧と三葉、いずれの心も入っていない状態で、自動操縦のように動いていたのだろうか。
 この点については映画版でも小説版でも記述がない。ただ、瀧の身体で眠りについた三葉が本当に翌朝三葉の身体で目覚めたのかについても実は確定できない。少し時間が戻って2日の夕方ご神体のところで三葉の身体に戻っていて、そのことを映画も小説も観客・読者に提示していないだけである可能性は残る。
 「リトライ」の10月4日についても「矛盾」はある。口噛み酒を飲んで10月4日朝の三葉の身体に瀧が入った時、10月4日朝の三葉の心はどこに行ったのかという問題だ。ご神体に残った瀧の身体で目を覚ますのは10月4日の彗星落下を経験し一度死んだ三葉だ。二度目の4日朝のまだ死んでいない三葉はどこかに押し出されてしまったことになる。
 上記の二つはいずれも時系列表を作れば比較的容易に気付きうることだが、さらに繊細な読みを要する疑問点もある。
 一つ目は、2016年10月3日の朝目覚めた瀧と、2013年10月3日の朝目覚めた三葉が、まだ二人とも翌日何が起きるか知らないにもかかわらず、なぜか泣いていることである。
 二つ目は、2013年10月3日に、瀧に会いに東京へ行った三葉の言葉だ。「会えっこない」と思いながら、三葉は次のように(内語で)考える。「確かなことが、一つだけある。私たちは、会えば絶対、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。君に入っていたのは、私なんだって」。そしてついに電車で瀧と対面した三葉はなぜか、瀧に向かって、「わたし、三葉」と言わずに「覚えて…ない?」と言うのである。
 前日の入れ替わりで奥寺先輩とのデートを取り付け、瀧のスマホに厳選リンク集まで作っておいてやるノリノリぶりだった三葉は、なぜその翌日に、「確かなことが、一つだけある。私たちは、会えば絶対、すぐに分かる」などと改めて思う必要があったのか。瀧が自分を覚えていないかもしれない可能性を、想定してしまっているのか。前の日まで快調に入れ替わりが続いていたのに、まるで既に一度名前を忘れた瀧の切迫感・不安感を三葉も共有しているかのように(瀧の忘却は、もちろん時系列上は2016年の10月4日以降に起きているが、物語上そのシーンは、この回想シーンより前に提示されている)。
 この二つの疑問点は、連動している。いずれも、まだ瀧との別れも糸守の破局も経験していないはずの三葉が、なぜかそれを知っているかのような心理状態に置かれていることを表わしているように見えるからだ。
 このことについて普通に考えれば、二人はこの後起こる糸守の破局と二人の別れを予感していたのだということになるが、物語の冒頭とラストで、二人が「朝、目が覚めると、なぜか泣いている」理由が、二人の別れとその忘却を身体が記憶しているからだということを踏まえると、10月3日の朝の時点で、二人はすでに一度以上、この後起こる糸守の破局と二人の別れを経験していて、身体がそのことを記憶していたのだと考えることも可能に思える。
 つまり、瀧と三葉はたった一度の「リトライ」で糸守の破局の回避と三葉の生存に成功していたのではなく、鹿目まどかの救済に何度も失敗していた暁美ほむらのように、何度も失敗していたのだと考えてみることができるのだ。だとすれば、二人とも3日の朝に泣いていることも、三葉が3日にすでに瀧が自分を覚えていないかもしれないという不安を抱いていることも、理解できる。
 このような解釈にどの程度の正当性があるのかは分からない。いずれにしても、この作品が、複線的で、なおかついつも前に進むとはかぎらない時間の流れを前提にしていることは確かだ。それは言うまでもなく、三葉のおばあちゃん、一葉が、組紐をより合わせながら丁寧に述べていたことだった。


 よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それがムスビ。それが時間。


 この時間観を、この作品の様々な「矛盾」をすべて解消することを可能にするご都合主義的な設定だと批判することもできる。しかし、何度もこの作品を見直し、今見たばかりの2時間の映画の時系列を整理し直そうとする中で、私は、自分の時系列に関する記憶力の弱さを思い知らされた。そしてさらに、そもそも私に限らず人は年齢を重ねて行くと、自分の経験についてさえ、その前後関係の記憶があいまいになっていくことを思い出し、また同じように年齢を重ねた時、「名前を思い出せない」という衰えに悩まされることにも気づかされた。
 この作品の主たるターゲット層の年代の人たちにはピンと来ないかもしれないが、固有名と時系列は、人の記憶が衰える二大ポイントなのである。アラフォー以降のおじさんやおばさんは、しょっちゅう「えーっと、あの人、ほら、名前なんだっけ?」となり、「あれって、いつだっけ?○○が××したのより後だっけ?」となっているのだ。
 瀧と三葉の、互いの名前の忘却と、物語上の時系列の混乱は、それが極めて短期間、短時間の間に起きているために、奇異な、不自然なもののように見えるが、これが60年くらいにわたる物語だとしたら、むしろ人の記憶一般についての普遍的な現象だと受け止めることができる。
 ある人の人生上の出来事の客観的な時系列というのは確かにあるのだろう。それを年表のような形で記録することも可能だろう。しかし私たちは、20年前に書いた日記を読み返して、「こんなことあったんだ?」「こんなこと思ってたんだ?」と驚き、読み返してもなお全くそれについて思い出すことができないということさえ普通にありうる。私たち自身が生きている現実において、時間は、一直線に、明解に、あいまいな部分を一切残さずに、進み、記憶されるわけではない。「君の名は。」が提示する時間と記憶の捉え方は、ご都合主義どころか、いたって現実的なのだ。
 「より集まって形を作り、ねじれてからまって、時には戻って、途切れ、またつながる」時間とは、客観的な時計時間とは異なる、一瞬に永遠が含まれうるような、密度の変化する時間のことでもあるだろう。だとすれば、瀧と三葉が互いの名前を忘れてしまうのにかかるわずかな時間の中に、普通の人が経験する数十年分の時間が濃密に含まれ、それゆえ、理不尽とも思える忘却の力が二人にかかるのだと考えることができる。妄想に妄想を重ねて、先ほどの瀧と三葉の「リトライ」は一度ではなかったかもしれないという解釈に戻るなら、忘却が起きるまでのわずかな時間の中に、実は二人が繰り返した膨大な「リトライ」の長い延べ時間が含まれているのだと考えることもできる。
 そしてもう一つ、瀧と三葉が生きて再会するラストは、新海自身言うように文字通り「奇跡」であって、その背後には、三葉がそのまま死んでしまっていた無数のルートの可能性、三葉が生き延びても二人が再会できることはなかった無数のルートの可能性があるばかりではなく、この先の二人が歩む道にもまた、無数のルートの可能性があることを、この作品の複線的な時間観は教えてくれる。
 このことをはっきり示している個所は本編に二つ、宣伝用キービジュアルに一つある。後者から触れておこう。
 


 この、ポスタービジュアルの次に多く露出した宣伝用ビジュアルは、『君の名は。公式ビジュアルガイド』(角川書店、2016年)の裏表紙にも使われている(画像はそこから引用した)。すでにどこかで指摘されているのではないかと思うが、このような場面は本編のどこにもない。
 ラストシーンの舞台となる階段で、同じ位置関係で振り向き合う瀧と三葉は、しかし二人とも制服を着ており、しかも瀧はすでに腕に組紐を巻いている。本編全体をシンボリックに集約したポスタービジュアルと違って、いかにも本編の名場面を描いたかのように見えるこの宣伝用ビジュアルは、しかし、本編で語られている物語のどの時点にも存在し得ない状況を描いている。これもまた、二人の物語がたどるルートに他の可能性がありえたことを示していると言えるのではないか。
 次に、前者について見て行こう。雪の降る夜、歩道橋の上で瀧と三葉がすれ違うシーンと、ラストシーンだ。雪の夜のすれ違いは、「秒速5センチメートル」(2007年)を観たことのある観客なら誰もが、「ここまで来て、まさか、また、二人が別れたままになる展開?」と思ったはずだし、奇跡的な再会を果たして、先にも触れた三葉の泣き笑いからの「きみの、なまえは」の、その直後に聞こえてくる野田洋次郎の歌声が次のように歌っていることも、二人の生が、これまでもこの先も、別れと忘却の可能性に開かれていた/いることを、示しているだろう。


二人の間 通り過ぎた風は どこから寂しさを運んできたの
(RADWIMPS「なんでもないや」)


 もし仮に、二人がこのまま順調に付き合い始め、生涯添い遂げたとしても、しかしいずれ別れの時はやってくる。どちらかが先に、あるいはもしかすると二人一緒に、死んでしまうのだから。そして瀧と三葉という人間がいたことを、記憶する人もいずれいなくなる。別れと忘却は、先送りされただけで、1秒後か100年後か分からないとしても、いずれ必ずやってくる。その寂しさを、私たちはいつもどこかに感じながら生きていく。
 この奇跡的な再会について新海は、次のように言っている。


 「この人を昔から知っているかもしれない」と思えてしまう感覚(錯覚)は、僕たちの日常の中でも希にありますよね。瀧と三葉もあの階段で、そのようなささやかな確信だけを抱えて、ごく普通の男女として初めて出会ったのです。そこから先の物語は、僕は観客のみなさんに手渡したいと思っています。(『君の名は。Pamphlet vol.2』、p.41)


「この人を昔から知っているかもしれない」と思えてしまう感覚が、瀧と三葉については「錯覚」ではないと、この映画を観て来た観客は思っている。しかし、瀧と三葉自身にとっては、そうではない。先に論じてきたように、二人が互いのことを意識の上では忘れていながら、身体のどこかで覚えているのだとしても、これが錯覚ではないと、二人がこの物語世界の中の誰か他人に証明する手段は何一つない。観客が見て来た物語が、ただの夢ではないと、証明できる者は、この物語世界の中に、一人もいないのだ。
 ここまで来て私たちは、あらためて、「君の名は。」という作品が、「過ぎたこと、選ばんかった道」は「みな覚めた夢と変わりやせんな」という認識を提示する「この世界の片隅に」と、記憶、夢、現実の、輪郭の曖昧さという主題を共有していることを思い出す。


 引き続き、今度は「この世界の片隅に」についても考えていきたい。また、「風景」をめぐっては二つの作品を照らし合わせながら考えてみたい。その上で、さらに「君の名は。」について言い落していることについても触れておきたい。だが、いかにも話が長くなりすぎている。ここでいったん、休憩を入れることにする(続きは多分8月の中頃に書きます下旬に書きました)。


→続きはこちら
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20170827/1503842260


君の名は。(通常盤)

君の名は。(通常盤)