宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

斎藤次郎、真崎守(峠あかね)トークイベント「「COM」のコミュニケーション」

 明治大学 米沢嘉博記念図書館で開催中の「伝説の雑誌『COM』 コミックス×コンパニオン×コミュニケーション」展の関連イベントとして、評論家の斎藤次郎*1さんと漫画家の真崎守さんの対談が行われました。司会は霜月たかなかさん。
 真崎さんは、当時、峠あかね名義で『COM』誌上で新人の投稿作の選考や評論の執筆を通じて後続世代に大きな影響を与えていますし、作家としてもカリスマ的な影響力をお持ちの方です。
 斎藤さんも、子ども調査研究所に属しつつ、マンガとロックを中心に若者文化・大衆文化全般を横断的に評論する活動で、後続世代に影響を与えていて、『COM』誌上でも「まんが月評」など多くの評論を書かれています。『まんがコミュニケーション』という評論誌(というよりタブロイド新聞的な体裁なので、評論紙というべきかもですが)を3号だけ発行していますが、この略称「まんコミ」は漫画評論の歴史においては伝説的なものになっています。真崎さんも創刊号の表紙イラストや掲載評論などで関わっています。
 『まんがコミュニケーション』をめぐっては、竹熊健太郎さんのブログに詳細かつ当時の文脈を押さえた素晴らしいエントリがあります。


http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_2d61.html
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_8a02.html


 今日のトークは、まずお二人の漫画との関わり、『COM』との関わりなどのお話から入って、お二人の同誌での評論の基本的なスタンス、『まんがコミュニケーション』の話、お二人の共作として著名な『共犯幻想』の話などへと展開しました。
 穏やかだけど明解な真崎さん、とぼけながらも時折熱さを垣間見せる斎藤さん、それぞれの語り口はいずれも生ける伝説としてのオーラを漂わせていて、なおかつ、お二人が並んでいることでかもし出される唯一無二の盟友的な空気感がまたかっこよく、いいもの見させていただきました、という感じでした。
 村上知彦さん、橘川幸夫さん、飯田耕一郎さん、さらには吾妻ひでおさんまでいらしていて、客席もとんでもない濃厚さでした。まんが評論家として現在もマンガ学会の理事をして下さっている村上さんと、『ロッキング・オン』や『ポンプ』の創刊に関わった橘川さんは、いずれもまんコミに関わっておられました。


 僕にとっては、後半、お二人が『ガロ』と結びつきの深かった『漫画主義』(先日展覧会を紹介した石子順造はこの『漫画主義』の同人です)との距離感から自らの評論のスタンスを語られていたくだりや、『COM』やまんコミが、どのような時代性の中にあったのかを語られていたくだりが、すごく興味深かったです。
 『漫画主義』はその名の通り、「漫画を漫画として語る」ことを標榜していたわけですが、それでも斎藤さんや真崎さんからは「漫画にかこつけて何か別のことを言いたいだけなのでは?」という疑念をいただかせていたこと、それに対して自分たちはあくまで漫画そのものを語ろうとしていたこと。
 『COM』では「まんが」というひらがな表記がとられていたが、そこにはこのジャンルをまさに「開く」という意図があったこと(これは村上さんが質疑の際に「ですよね?」と聞かれ出てきた話です)。
 斎藤さんは、子ども調査研究所に就職して、中・高・大としばらく離れていた漫画を改めて片っ端から読む中で、真崎さんの作品に出会い、漫画が若者の自己表現になりうることに気づかされ、傾倒していったこと。
 『COM』などを舞台にした漫画表現の革新やそれに評論が同伴するといった動きは、60年代末から70年代初めにかけての世の中全体が大きく変わる予感の中で展開したものであったこと。それは音楽で言えば若者を熱中させるものがジャズからロックへ転換していったのと同時代的であったこと。
 漫画家真崎守と評論家斎藤次郎の関係は、映画で言えば大島渚と斎藤龍鳳みたいなものでしょと斎藤さんが言うと真崎さんが「そんな大したもんじゃないよ、俺あんなに変わってないし」と笑いながら返したり。
 真崎さんはプロの作家を評論するときと新人の投稿の選評を書くときははっきり違いを付けていて、新人については、将来性があると思ったらその投稿作自体に色々欠点があってもまず誉める。技術はいずれ身に着くので、「体温が伝わる」かどうかが重要。


 まんコミをなぜ3号でやめてしまったのかについては、これは自分がやりたかったものとは違うと思った、だけどじゃあどういうのがやりたかったのかも分からなかった、と斎藤さんが率直におっしゃってたのが興味深かったです。
 その話の前に、『ニューミュージックマガジン』誌やロックコンサートの会場の「場」としての魅力について触れられていて、まんコミも『ニューミュージックマガジン』誌の若手編集者たちが出していたペーパー『ミュージックレター』に触発されて出したとおっしゃっていましたし、実際斎藤さんは『ニューミュージックマガジン』にもロック評論を書き、遠藤賢司あがた森魚といったミュージシャンのライブに関わっていたことに触れておられたので、ロックという表現とその場と、漫画という表現とその場の違いが、そこに見えてくる気がしました。
 こうした、同時代の若者文化の横のつながり・混じり合いは、今からさかのぼって「漫画史」とか「音楽史」というジャンルに割られた関心から見て行くと、見過ごされがちな部分ですが、当時の表現と「場」について理解する上では一番重要だし、面白い部分ですよね。
 僕は質疑の時に、「コミュニケーション」という言葉に込められていた意味についてお聞きしました。COM展の副題にもなっている「コミックス(COMICS)、コンパニオン(COMPANION)、コミュニケーション(COMMUNICATION)」という三つの「COM」は、創刊号で掲げられているスローガンなのですが、このうち、「コミュニケーション」は、情報発信というような意味を担わされていて、今の日本語に定着しているコミュニケーションに近いのはむしろ「コンパニオン」の方になっています。
 しかし、斎藤さんが『まんがコミュニケーション』という評論紙を作った時、そして自著『共犯の回路−ロック、劇画 可能性のコミュニケーション』(1973年、ブロンズ社)でこの言葉を使った時、すでに「コミュニケーション」には今日のような意味が込められていたと思えます。
 つまり、今からは分かりにくくなっていますが、60年代後半から70年代初めにかけて、まだこの言葉には、新しい言葉としての意味の揺れがあって、しかし、だからこそそこに強い意味を込めようという意識が若者文化の中にあったということではないかと思うのです。
 これに対して斎藤さんは、まさにそうだと思うと答えて下さいました。要するにコミュニケーションという言葉に、作家は描くだけ読者は読むだけ、という一方通行的なあり方ではない、双方向性、相互交流的な関係性、という意味を(今では当たり前と言えば当たり前ですが)強く込めようとしていたと。
 実際『COM』自体もそうでしたが、読者の声が直接作者に届く、編集部が熱心な読者に解放される、読者が作者にすぐなれる、全国の投稿者が『COM』を通じて交流する、作家が漫画も描くし漫画評論も書く(真崎さんは、同業者にからまれたらお前も評論書けばいいと言っていたそうです)、みたいな、双方向性こそ、それまでのごく少数の表現者・芸術家が表現をし、それを一方的に特定の文化産業が商品として流通させ、受け手はただそれを享受するだけ、というあり方を覆す、当時の若者文化、カウンターカルチャーの可能性の中心として捉えられていたということだと思います。
 コピー機もない時代、青焼きのたった10部のミニコミを、自分以外に「9人に配れる」というだけで夢中で作れたという話をうれしそうに斎藤さんは話され、とにかくそうした双方向的な多様なコミュニケーションへの欲求が高まっていながら、技術的にはまだまだその実現に困難が伴っていたのがこの時代だったと言われていました。


 いやー、面白かったです。打ち上げ終わって駅までの道すがら、斎藤さんから当時の『ニューミュージックマガジン』には田川律氏に言われて書くようになったこと、同誌の編集部で、中村とうよう氏などの「おじさんたち」が帰った後、小倉エージ氏らがわいわいやっていて、その中で『ミュージックレター』が作られていた話などうかがえました(この辺歩きながら聞いた話なので、不正確な部分があるかもです)。
 そんな斎藤さんが作った『まんがコミュニケーション』の写植を打っていたのが「創刊号の真崎さんの座談会に参加してテープ起こしをし」たり原稿を書かれたりしていたのが橘川幸夫氏で*2、その橘川氏や渋谷陽一氏たちが『ニューミュージックマガジン』(現在の『ミュージックマガジン』)に対して批判的なスタンスの『ロッキング・オン』を創刊するわけですから、斎藤次郎さんの活動を見て行くと、漫画と音楽の評論の歴史についてはかなりいろんなことが見えてくるなあと、すごく得した気分でした。
 

【追記】
 脚注にも書きましたが、橘川幸夫さんから、ご自身の『まんがコミュニケーション』との関わりについて、単なる訂正にとどまらない貴重なお話をいただきました。
 ご許可をいただいて、以下に一連のツイートを転載させていただきます。橘川さんありがとうございました。

宮本さん、昨日は良いトークライブをありがとうございました。ブログ、僕の記述に間違いがあるのでw 説明します。


僕はまんコミの写植をうってません。普通の大学生でした。まんコミ創刊号の真崎さんの座談会に参加してテープ起こしをしました。原稿も書きましたが、僕のデビュー原稿です。写植を覚えるのは、その頃に知り合った浪人生の渋谷陽一と出会い72年にロッキングオンを創刊したあと


ちなみに、僕は、漫画主義の同人が読書人に書いた真崎批判の原稿に対して、怒りの投稿をw 読書人に送って読者欄に掲載され、それを見た子ども調査研究所の高山さんから連絡をもらって、斉藤さんとも知り合いました。


懇親会に参加して、直接、この辺の事情を、お話すればよかったですねw 村上くんと僕が出会ったのも、まんコミがきっかけです。お互い学生で、文芸座に映画見にいったりしましたw


僕は、まんコミは創刊号しか深くは関わっていないのですが、ロッキングオン創刊の方に動いて行きました。ロック&コミックはひとつのものでした。真崎さんも当時、ロックをガンガン聞いてましたw ロッキングオンの創刊3号と5号の表紙は、真崎さんです。ノーギャラでしたw


ついでですが、70年に、原正孝(原正人)さんが撮ったジャックスのドキュメタリー映画「自己表出史・早川義夫編」の一シーンに斉藤次郎さんが映ってたことを思い出したw


僕が一番面白かったのは、次郎さんが、楳図かずおさんのマンガをほめたら手塚治虫さんから電話かかってきた話w 子ども調査研究所は、多くのまんが家との交流があった。高山所長の人脈なんです。いつか子ども調査研究所のことを本にしたいな。


次郎さんの勘違いw 写植屋に見習いに行ってた頃は、よく子ども調査研究所に遊びに行ってたが、まんコミのあとだな。RT @hrhtm2011 ご指摘、貴重なお話、ありがとうございました!帰りの道すがら斎藤さんが「橘川くんが写植打ってたんだもんなー」とおっしゃっていて、ロッキング・オンでの件は渋谷さんの本で読んでいたので、おおそうかと思いこんでしまいました。


もひとつ。真崎さんの、牙の紋章を読んで、実際に闇縛りをやったのは、僕です。GWで、子ども調査研究所が1週間休みなのでそこの風呂場を密封して、やりました。そのことを真崎さんが、浅川マキさんに話して、ステージでネタにされたりしましたw

 
 この辺の話はめっちゃ興味があるので、興奮します。
 あ、ちなみに、今回のトークは展示の企画構成をされた館のスタッフSさん(なぜかあまり名前を出したがらない方なのでイニシャル表記です)と監修の霜月たかなかさんが段取りをされたので、僕は単なる記録写真係です。
 

*1:今回のイベントの告知等では「斉藤」で統一しています。これは『COM』誌上ではこちらの表記が取られているからです。が、『共犯の回路』など主要な著書や他の掲載誌では「斎藤」のことも多いので、本を探してもらう時のことを考えて、ここでは「斎藤」を取らせていただいています

*2:橘川さん(@metakit)からツイッターで、まんコミでは写植は打っていない、写植をおぼえたのはロッキング・オンを創刊した後、とのご訂正をいただきました。「」内はツイートからの引用です。