宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

どきどきのような!ふしぎのような!−「崖の上のポニョ」について−

 いやー、この長男の初見の第一声。こうやって見出しにして、改めて眺めると、これ以上何を付け加えることがあるのかと言いたくなるような素晴らしい感想ですが、おやじはおやじで思ったことを書いておきます。


 前回のエントリで、「最高じゃん」と書きました。もう「もののけ姫」以降恒例になってるわけですが、いわゆる「うるさがた」のみなさんは、今回も色々おっしゃっているようです。そんな中で「最高じゃん」と一言で言い切ることが、批評的な意味を持つような作品だと思ったんですね。ほんっとに吹っ切れたんだな、と。
 普通にいい話だし、今までの宮崎駿フィルモグラフィーを踏まえれば、特別分かりにくいところなどない、実に明解な話だと思いました。


 別にきちんとどんなことが言われてるのかフォローしてるわけじゃないんですが、この作品について否定的なことや、否定のような肯定のような煮え切らないことを言っている方たちは、自分の眼が恐ろしく貧しい意味での「合理主義」や「リアリズム」の膜に覆われていることを疑った方がいいと思いました。


 以下、ネタばれしまくってると思いますんで、未見の方はご覧になってからお読み下さい。


 僕はそれほど多くのアニメーションを見ているわけではありませんが、宮崎駿の作品はすべて追っていますので、ごく素朴に、彼のフィルモグラフィーの文脈の中で、この作品をどう読めるかを述べます。したがって、当然ほかにもこの作品の読み方はいろいろありうると思います。


 まず、「リアリズム」の問題について簡単に言います。高畑勲押井守の宮崎批判に明らかなように、アニメーション作家としての宮崎駿は、アニメーターとしても演出家としても、すなわち絵の動かし方においても、物語展開においても、リアリズムを容易には否定できない前提としながら、いかにそこから思い切り飛躍する瞬間を作り出せるか、という姿勢を持ち続けてきたと言えます。
 このことをもう少し思想的に言い換えると、人間は、基本的にこの現実の世界の原理に縛られて生きている、しかし、ある瞬間、ある人間が、いわば「超人」的な、「ありえない」ような力を発揮して、事態を動かしていってしまうことは、現にあり得る。人間には、そういう、普通に「リアリズム」で考えればあり得ないようなことができる力をもった存在に変わり得る瞬間があるはずだ、なんとかその瞬間を「ありえるかも」と思わせるように描きたい、それができるのがアニメーションだ、ということです。


 その一方で、「もののけ姫」およびマンガ版「ナウシカ」の完結以降、宮崎は、どんなに度し難い現実も、それを人間が人間の力で根本的に「良くしてやろう」などと考えるのは間違い、というか「無理」だと考えています。人間が文明の力で自然を支配しつくすのも無理、人間が人為で人間の住む世界をリセットして原初の自然に戻ろうなどというのも無理、でも、そんな無理なことを考えてしまうのも、それはそれでしょうがない。とにかくどうにか生きていくしかないじゃん、というわけです。転機となったのは、その少し前、主人公を豚の姿に描き、男どもの殴り合いを半分滑稽なものとして描いて終わった「紅の豚」だったように思います。
 「もののけ姫」以降、宮崎が、男性を主人公にしていないことからも明らかなように、宮崎は、そうした、おのれの力で世界を救済したり、世界を「もとの良き姿に」戻そうなどと考えるのは主に男性であり、その種の「男性的」な、理念的な行為の美学は、彼の考える、すべてをあるがままに受け入れる女性的なものの前では、実にちっぽけなものにすぎないと考えるようになったようです。これが最も顕著になったのは、おのれひとりの魔力に頼ったテロリズムで大国の戦争をやめさせようとするハウルの営為を、ラブ&ピースの思想で抱きしめるように否定してしまう「ハウルの動く城」においてでしょう。


 乗り越えるべきものとして「リアリズム」を捉える姿勢と、おのれひとりの人為で「現実」を変えることは無理なのだという断念は、どのように整合させられるのでしょうか。それは「ハウル」においてソフィーが示しているように、自分で現実をまるごと変えようとするのではなく、現実とは、自分の意志とは必ずしもかかわりなく、「小説より奇なる」事実が生起しうる世界であると考え、その中で、自分は自分の欲求に従って、できる限りのことをし、変えられる範囲で現実を変える、という、ある意味ではごく当たり前の考え方です。「ポニョ」という作品は、その考え方が、「ハウル」以上に、明解に示されている作品だと思います。


 「ポニョ」におけるフジモトは、自分が人間であったことさえ否定し、海と生命の神秘をつかさどる存在、グランマンマーレに触れ、おのれの科学的・魔術的探究によって、原始生命を再生する技術を手にし、その技術によって、人間の手で汚されたこの海を、厳密な管理と慎重な実験を踏まえつつ、統制の行き届いた形で、原初の状態に戻そうとしているようです。ポニョとその妹たちも、恐らくはフジモトがグランマンマーレから得た何かと自分の技術=魔術を組み合わせることによって生まれたのでしょう。しかし、こんな営みは、ここまでの宮崎の歩みの延長上では、美化されるべき英雄的な営みではありえない。所ジョージを声優に当て、いかにもコミカルな動きの演技を割り当てられ、その理想主義もそれはそれとして理解はできるものとして愛でるように描かれつつ、ポニョを人間に触れさせず、無垢のままにとどめ置こうとするフジモトの考えは、ポニョの「母」であるグランマンマーレにもポニョ自身にもあっさり否定されてしまうのは、そのせいでしょう。
 一方、どんなものにもなり得る原初の生命としての力をもったポニョが、宗介が好き、というごく個人的な欲求に従って、人間になりたいというのなら、それはそれでいいではないか、というのがこの作品の結論です。すでにお気づきのように、この作品ぐらい、伊藤剛さんの「キャラ/キャラクター」理論、すなわち「リアリティ」を「現前性」と「もっともらしさ」の二層に分けて理解する考え方で、すっきり説明できる作品もないのではないでしょうか。


 要するに、宮崎駿は、この作品で、はっきりと、「キャラクター」の「もっともらしさ」より、「キャラ」の「強度」を全面的に前に押し出しています。魚と半魚人と人間の間を自在に行き来するポニョのあり方は、観客が生きるこの現実の中にありえそうかという意味での「もっともらしさ」を全く欠いていながら、そこに生命感に満ち溢れた何かが「いる」という「現前性」は強烈に持っています。
 そしてさらに重要なことは、この作品が、宮崎駿が今までの仕事の中で、一方ではとことん追求しつつ、一方ではそこからいかに思い切り飛躍するかという二律背反的な課題としてきた「キャラクター」のもっともらしさを追求する営みとしてのリアリズムを、単に否定して、「漫画映画的」な「キャラ」の「強度」へと、回帰しているわけではないということです。なぜ、そう言えるのか。
 この作品は、ポニョが宗介と結ばれるために、すっかり人間になってしまうことをもって、終わっています。それをハッピーエンドとして提示しています。つまり、「キャラ」がすっかりその強度を失って「キャラクター」へと成長して(去勢されて)しまうことを、肯定しているのです。これは、観客に、「キャラ」の強度が支配するファンタジーの世界から、「キャラクター」のもっともらしさが支配する日常の世界へと帰ることを、促すものだと言えるでしょう。


 では、この作品は、結局、「キャラ」は「キャラクター」へと「成長」すべきものであり、我々は、「キャラ」の強度が支配するファンタジーの世界に耽溺するのではなく、「キャラクター」のもっともらしさが支配する日常の世界を生きなければならない、という「思想」を提示しているのでしょうか。これも、もちろん、単純にそんな話ではない。
 グランマンマーレは、宗介に、ポニョがかつて魚であり、また半魚人であったことを知った上で、人間としてのポニョを受け入れられるかと聞きます。ここで彼女は、人間になったポニョという「キャラクター」に、「キャラ」としての強度が内包されていることを記憶し続けよと確認しているのです。「千と千尋の神隠し」において、トンネルを抜けて元の世界に戻った千尋が、トンネルの向こうでの記憶をすっかりなくしていても、千尋にはいざというときあれだけのことができる力が内在していることを、観客には知らせていたことを思えば、「ポニョ」では、さらに踏み込んで、トンネルの向こうで起こったことを、当人たちにも忘れないでいさせていると言えます。
 実際、「千と千尋」では最初にくぐって、またくぐって戻ってくるものだったトンネルが、「ポニョ」では、最後に唐突にくぐり抜けるべきものとして現れ、それをポニョと宗介が一緒にくぐり抜けたまま、再びそのトンネルをくぐって「戻る」ことなく作品は終わっています。
 「もっともらしさ」の追求としてのリアリズムなどくそくらえと言わんばかりに、奔放きわまる圧倒的なイメージの運動とメタモルフォーゼを、次々に繰り出しながら、ポニョによって原初の生命の基みたいなものが完全に解放されて太古の状態に海が復古してしまった状態を、グランマンマーレは「世界のほころび」と呼びます。そこでは、いわば、キャラの原理が支配する世界とキャラクターの原理が支配する世界が混濁してしまっています。
 「パンダコパンダ 雨ふりサーカス」を思わせる、水没した町(それ自体が、たとえばうちの子なんかにはうれしかったりするわけで、民家の前を古代の魚が泳ぐ様子を見て、「うわぁ!」とうれしそうに僕の方を向いたので「パンちゃんみたいやね」と言うと、力強くうなずいていたわけですが)を前に、「普通の」大人たちの言動が、奇妙に、もっともらしさと、もっともらしくなさの同居したものになっていたのもそのせいでしょう。


 アニメーターとしての才能を、ここ数作には見られなかった野蛮さで全面的に発揮しつつ開示して見せた、「キャラ」の強度が支配する世界の圧倒的な生命力と「面白さ」は、しかし「キャラクター」の「もっともらしさ」の世界と整合的には共存しえない。またそれのみの世界に観客を逃避させることは、宮崎駿の倫理にも反する。だから、宗介とポニョに、ポニョが「キャラ」であったことを忘れるなと言い聞かせて、彼らが「キャラクター」へと成長すること、観客が、劇場で見たことを自分の内に秘めたまま日常の世界に帰ることを、後押しする。これが、この作品の「思想」的な「結論」です。「キャラ」の世界と「キャラクター」の世界は、両立はしえないけれども、排他的な二項対立ではなく、後者が前者を、表に見えはしないが内包している、という関係になり得る、というわけです。うーん、ハヤオ、『テヅカ・イズ・デッド』読んだんじゃねえの?
 そう考えると、この作品のエンドロールで、宮崎作品でよく見られる、ラストシーンの「その後」を余韻を持たせて見せることをしていないのも、理解できます。キスをして、ポニョが人間になって、ぷつんと終わって、その後は見せない。なぜなら、その後は、「キャラクター」のみの世界の物語になってしまうからです。「世界のほころび」が露呈するときの、「どきどきのような!ふしぎのような!」面白さを思い出させることが主眼のこの作品では、そこは、もう、見せなくてもいいんです。


 それにしてもこの終わり方、キャラへと回帰した巨大綾波の世界の気持ちよさ=おぞましさから、どうしようもなく「人間=キャラクター」同士であるほかない「気持ち悪い」世界へ戻ることを、なんとか肯定して見せた「エヴァ」劇場版の終わり方によく似てますよね。庵野よ、お前の言いたいことは、こうやれば子供にも見せられるんだぜと言っているようにも見えます。


 また、フジモトが手塚キャラっぽいという、伊藤剛さん自身もしている指摘も、こう考えてくるといろいろつながってきます。すでにふれたように、フジモトは人為で生命を作り出してしまうような魔術師であり、初期の手塚SFに登場する、ウサギの知能を人間並みにしてしまったり、人造人間を作り出したり、植物人間を作り出したりする「博士」たちの系譜の上にいます。いわば、彼らは読者の現実の世界に照らしたときに「もっともらしさ」を持たない「キャラ」を、自ら作品内に生み出す存在であり、その意味でマンガ家・手塚の代行者でもあります。
 『テヅカ・イズ・デッド』の議論が明らかにしたように、初期の手塚は、そうして生み出されたキャラが、その強度を維持したままでは、生き続けられないような、「もっともらしさ」のリアリズムが支配する世界を描き、「キャラ」の強度は、隠ぺい・抑圧されるべきものとして位置づけられ、「キャラ」が「キャラクター」として死んでいく悲劇によって、その隠ぺい・抑圧が達成されるという構造の物語を繰り返し語っていました。その中では、耳男も、ミッチィも、自分が「人間=キャラクター」でないことを、自ら悲しみ、「人間」らしくなろう、「キャラクター」としてのもっともらしさを獲得したいと願っていました。


 ところが、「ポニョ」では、フジモトに生み出された「キャラ」としてのポニョが、フジモトの意志に反して、自らがキャラであることをさらに全面的に発揮して、自らの意志の力で魚から半魚人になり、さらに人間になり、しかし、「もっともらしさ」の原理には支配されない存在として、荒波に乗ってものすごい勢いで走りながら宗介のもとへ現れます。ポニョは「人間になりたい」と強烈に願う一方、自分がそんなことを願って実現できる程度に「キャラ」であることも、ちっとも恥じたり悲しんだりしていない。
 さすがに、そんな「キャラ」の強度を丸出しにしたまま、ポニョが宗介と暮らしていくという結論にはできないけれど、ポニョが「人間」になることは、あくまで「悲劇」としてでなく、ハッピーエンドとして描かれます。要するに、宮崎駿は、フジモトを手塚キャラっぽく描くことで、我々に、「キャラ」の「キャラクター」への「成長」を、「キャラ」の隠ぺい・抑圧という悲劇としてしか描けなかった手塚を越えて、「ポニョ」が、「キャラクター」が「キャラ」であったことを忘れないまま、しかし「キャラクター」として生きていく幸福な終わり方がありうることを示していることに、気づかせてくれているのです。


 うーん、こんなだらだら長く書くつもりなかったんですが。
 見たその日に勢いで書けば、もっとシンプルに断定的に書けたと思うんですが、日を置いてしまうと駄目ですね。


 この作品がすごいのは、おそらくは、上に書いたようなこの作品の「思想」が、宮崎駿の中に先に形としてあって、それを見事にアニメーションとして表現した、ということではなく、とにかく俺は今まで自分がやって来たようなアニメーションも、他人がやってるようなアニメーションももう作りたくないんだ、新しいことがしたいんだ、何か自分が今まで描いたことのないような絵と動きが描きたいんだ、でも、その結果としての作品は、見てくれる子供たちが自分の日常を生きる力にならなきゃいけないんだ、という衝迫と、その衝迫につき動かされてとにかく描く、という表現の過程の中で形をなしてきたんだろうということが、伝わってくる迫力を持っているからです。
 とりあえず、今回、時間的にも心理的にも、ほかのみなさんの論評をきちんとたくさん読んでまわる余裕がなかったので、この程度のことはとっくに論じつくされてるんじゃないかとも思うんですが、もしこの作品を「理解」する一つの方法として、みなさんのヒントになる部分が含まれていれば幸いだと思い、取り急ぎ書き散らした次第です。


 あと、ここからは、自分が読ませてもらった範囲の感想や批評についての付け足し的な感想ですが、「批評」を、算数ドリルの答え合わせのような、どこかに確たる「正解」があって、自分はそれを知っているかのように作品を「採点」することだと思っている人が多すぎやしないでしょうか。みんなが知っているような「正解」とは違う、自分には思いもよらなかったような新しい答え方を、作品の中に発見する営みのことを批評と呼んだ方が、僕はいいと思います。いきなり絵コンテ描き始めるからシナリオがなってないだとか、説明が足りないだとか、親を下の名前で呼ぶのはどうかとか、あの母親の運転は乱暴だとか、あんたが教師で宮崎駿が生徒かよって思ってしまいます。そんな教師の示す「正解」通りのアニメーションなんか、宮崎駿は見たくないわけですよ。俺だって、そんな、劇場に金払って行ったら教科書読まされた、みたいなもん、見たくないっす。
 もし僕が、あんな波がざぶざぶ来てるとこ運転していいの?って言われたら、アニメだからいいの、じゃなくて、リサはめちゃくちゃ運転がうまいからいいの、と答えます。実際、「ひまわり」へ行く時は宗介たちを置いて行くのは、さすがに危ないと判断したからでしょう。あそこが一番高い所にある家なのだから、あそこに置いて行くのが一番安全なのだし、もしあそこまで水没するなら自分が一緒にいても同じことだし、仮に自分の身に何かあっても、父親や近所の誰かが宗介を助けてくれるはずだという信頼感があり、その上で「ひまわり」の老人たちが心配だから行く、というのはそれなりに整合性あると思いますよ。僕にはもちろんできませんけど、宮崎キャラは、みんなそういうふうじゃん、昔から。


 ポニョが「金魚」には見えないってのもそうです。ポニョは魔術的な科学で生み出された「魔法の力(=「キャラ」の強度)」の持ち主なんですから、「さかなの子」でありながら、自然科学的な意味での魚類でないことなど自明ではないでしょうか。フジモトがやってることや、「魔法」って言葉がはっきり出てくることを踏まえれば、そんなとこでひっかかるのおかしいですよ。少なくともうちの6歳児は「まほう」の一言で、いろいろな「ふしぎ」を楽しく受け入れてましたよ。
 さらにちなみに、「ひまわり」のばあさんたちも、みんなまだらボケなんですから、ポニョを人面魚だというばあさんも、単に金魚だと言われればそうなのかなと思ってしまうばあさんも、両方いていいんです。まだらボケの程度の違いです。老人が子供に近い存在であり、その意味で、キャラクターのもっともらしさなどにこだわらず、キャラの現前性を素直に受け入れやすい存在であることも、僕には自明に思えます。ポニョを人面魚だと言って、最後の場面でも「だまされないよ」と言って水の中に入りたがらないトキさんは、いちばん頭がはっきりしていて、自分の老いを恐れている分、「もっともらしさ」の世界へのこだわりが強いってことだと思います。


 あともういっこ。この作品の主人公を宗介だと思って、男の子の成長物語としてなっとらーん!みたいなことを言っている方がいるのには心底びっくりしました。これは、ポニョが主人公で、ポニョが活躍して、上で述べたような意味で「成長」する物語でしょう。ポニョはトトロみたいなもんで、「人間」の「男」は宗介だけだから宗介の成長物語である(べきorはず)と思われたのかもしれませんが、どう見たって違うでしょう。「主人公」って言う概念は、だいぶ曖昧なものなので、ポニョと宗介がどちらも「主人公級」の存在だとも言えますが、少なくとも宗介だけが主人公なんてことはない。当然のように「キャラクター」と「男」を中心にアニメを見てしまうバイアスが、自分のまなざしにかかってないか、相対化した方がいいと思います。


 以上です。あとはまたみなさんで、いろいろご議論ください。