宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

マンガの「歴史」と「現在」をつかまえるために 伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

 読みやすい本ではない。いささか生硬な文体で、「ポストモダン」、「システム論的」、「データベース」、「テクスト」といった「現代思想」風の言葉を用い、東浩紀の『動物化するポストモダン』を引用しながら、「キャラ/キャラクター」、「フレームの不確定性」といった独自の概念を創出する手つきを目にすると、虎の威を借る言葉遣いで自らの議論の貧弱さを糊塗し、サブカルチャーをめぐる議論を不必要に小難しくする類の本かと受け取る読者もあるだろう。しかし、それは違う。
 ていねいに一字一句読み進めていけば分かることだが、これらの「現代思想」風の概念は、一見した時の印象ほど多く使われているわけではないし、これらの概念になじみのない読者にもその意味が通じるような噛み砕き方がなされている。この本の読みにくさは、ある種の用語法にあらかじめ通じていることを読者に要求する高踏的な態度によるものではない。むしろ、伊藤の書きぶりの異様なまでの誠実さこそが、この本を読みにくいものにしているのだ。
 読者はそこに、今まで誰もがうすうす感じ取っていた「何か」にはっきり気付いてしまった者が、それを何とか言葉に置き直していこうとする愚直でたどたどしい歩みを見ることになるだろう。すでに十分体系化された専門的知見を一般の読者にわかりやすく啓蒙する類の本ではなく、書きながら考え、考えながら書くその過程を、ほとんどそのまま記録した思考のドキュメントとして、この本はある。
 90年代初頭以降、夏目房之介の「マンガ表現論」を中心に、大塚英志四方田犬彦らの重要な仕事が積み重ねられることによって、マンガ論は大きな進展を見せてきた。だが実は、マンガ表現とそれを取り巻く様々な事象を原理的・体系的に捉えようとする「研究」的な仕事が充実していく一方で、マンガの「現在」を捉えるべき「批評」の言葉は、すっかり機能不全に陥っていた。このことに対する危機意識が、伊藤にこの本を書かせている。
 安易な要約を拒む密度の高さで展開されるこの本の議論を、わずかな紙幅で適切に紹介しつくすことはできない。また評者はすでに、著者の伊藤、及び夏目との鼎談の中で、この本の中核となる二つの概念である「キャラ/キャラクター」と「フレームの不確定性」について、ありうべき誤解を排しつつ、その研究史上の意義を述べている(「キャラの近代、マンガの起源」『ユリイカ』2006年1月号所収)。そこでここでは、この鼎談で十分触れられなかった、この本の前半で述べられている根本的な問題意識について要約・解説することで、マンガ論の文脈になじみの薄い読者への導入としたい。
 まず第一章では、80年代後半から今日に至る、マンガ批評の機能不全が確認される。マンガは「つまらなくなった」とか「終わった」といった物言いが、分析的な検証ぬきで、「なんとなく」マンガをめぐる語りの場を支配していく過程で、いくつかの重要な変化が見落とされ、現に行なわれている多様なマンガの「読み」が、「あるべきマンガ」とその読み方から逸脱するものとして、否認されてしまっている事実が指摘される。
 「つまらなくなった」説がその意味を取り逃している重要な事例の一つに、娯楽メディアの中でのマンガの地位の「低下」が挙げられる。アニメやゲームに「原作」を提供する一方だったマンガが、逆にアニメやゲームを「原作」とする例も珍しくなくなり、三者が同時並行的に企画されるメディアミックス戦略も一般化してきたという事実である。マンガ・アニメ・ゲームの中でのマンガの「特権的」な地位が崩れ、三者が同じキャラクターを共有し、それぞれのメディアで、そのキャラクターを利用した異版が製作される状況が生まれているのだ。伊藤はこれを「キャラクター表現空間」の成立と呼び、このことを、「マンガとは何か」をあらためて相対化する契機とすべきなのだと言う。
 続く第二章では、マンガ批評の機能不全が、80年代後半に起こった、ある「切断」とも呼ぶべき事態に、論者たちがきちんと向き合うことができなかったことによるものだと論じられる。その「切断」のもとになったのは、もはや「オリジナル」な「物語」はありえないという認識を、優れたマンガ家たちが共有し始めたという事実である。そうした状況の中で、いがらしみきおの『ぼのぼの』(86年〜)が、そこに登場する複数のキャラクターたちの順列組み合わせによって、「物語」などいくつでも生成できるという、「データベースみたいなもの」として、意識的に作られていたことが指摘される。ここでは、物語の内部に従属するものであったはずのキャラクターが、むしろ物語に先立って物語を生成するための「データベース」を構成するというモデルが成立しており、物語とキャラクターの位置関係は逆転している。これは、先に触れた「キャラクター表現空間」の成立、すなわち、キャラクターが、特定の原作の物語内部に従属すべき存在としてではなく、特定の作品を離れて複数のメディアを自在に渡り歩くような「自律性」を持つようになったことを、一人の作家が自覚的に引き受ける実践でもあったのだと、伊藤は論じる。
 こうした前提に基づいて、マンガを論じようとする者が自らの「読み」の限界を相対化しつつ議論を進めるための「システム論的」なモデルが提示される。作者、作品、ジャンル、読者、社会の、動的な連関を捉えようとするもので、これによって表現論、受容論、反映論といったさまざまなアプローチを、相互に否定しあうことなく有機的に関連付けることができる。実際このモデルとその図解は、夏目が『マンガ学への挑戦』(04年)の末尾で、その悪戦苦闘の到達点として示したモデルを、軽く凌駕していると言えよう。
 しかし、この本の真に知的な探求は、むしろこの後の第3章以降の議論において展開される。そもそも「つまらなくなった」説が囚われてしまっているマンガ観とは、どのようなものなのか。ここで伊藤は、「つまらなくなった」説を唱える者たちが、一様に、手塚治虫を「(戦後)マンガ」の「起源」とみなす点に注目する。彼らはまた、手塚の死を、マンガの「終わり」や「解体」を象徴するものとして捉えたがる点においても共通しているのであり、要するに彼らにとって、「マンガ」とはすなわち、「手塚治虫」のことなのである。
 従って彼らにとって「マンガ史」とは、手塚があらかじめその初発の作品群のうちにはらんでいた可能性が展開されていく過程として捉えられる。「劇画」も、「24年組」以降の少女マンガも、大友克洋も、結局のところ元をたどれば手塚の内にその萌芽を見出すことができるのであり、一見手塚を乗り越えるかに見えるものも、すべては「手塚治虫という円環」の中に回収してしまうことができる。マンガ史をめぐる語りは、論者に自覚があるか否かを問わず、基本的にこの「円環」の中に閉じ込められており、真にその「外」に出てしまう可能性を持った80年代後半の「切断」以後の事象は、語られるべき「歴史」の埒外にあるかのように否認されてしまうのだ。
 伊藤が「表現論」と区別して「表現史」という言葉を用い、それが「書かれてこなかった」と言うのは、このことを指している。夏目でさえ、この円環の限界に気付きつつも、はっきりその外に出ることはできていなかったと言えるのであり、伊藤の言う「表現史」とはつまり、すべてが手塚の掌の内にあるようなマンガ史ではなく、手塚をその中に含みこみうるような、もっと「ひらかれた」マンガ史のことなのだ。「テヅカ・イズ・デッド」。しかし、「マンガ・イズ・ノット・デッド」。これが伊藤の主張の根本である。
 では、伊藤の言う「手塚治虫という円環」、すなわち「マンガのモダン」は、どのようにして成立したのか。マンガの手塚起源説の根拠とされてきたものは、大きく分けて二つある。主題における子どもから大人への「成長」という問題の導入と、この主題を描くために行われた表現技法の革新である。要するに、「人間」を「リアル」に描くことなのだ。だが、元来紙の上に描かれた線と文字の集まりにすぎないマンガに、読者が「リアル」な「人間」を見出すような事態が可能になるためには、マンガがマンガにすぎないという事実が、ある側面では忘れられてしまわなければならない。
 この、それなくしてはマンガがマンガたりえないにもかかわらず、それが忘れられてしまわない限り、マンガにおけるリアリズムが成立しえないような要素こそ、伊藤の言う「キャラ」の「現前性」であり、「フレームの不確定性」なのである。この二つの要素の隠蔽に、大きな役割を果たしたのが手塚治虫だったのだが、「キャラクター表現空間」の成立以降、この二つの要素が再び露出してきているのが、「マンガにおけるポストモダン」の兆候だと、伊藤は捉えるのだ。
 以上、この本の刊行以来、広範な反響を呼んでいる「キャラ/キャラクター」と「フレームの不確定性」という新たな概念が、なぜ編み出されなければならなかったのか、その必然をたどってきた。その議論の中核については、前掲の鼎談などを補助線としながら、本書に直接当たっていただきたきたいのだが、最後に一点だけ。
 「キャラ」と「キャラクター」を概念的に分節し、「キャラ」を原基としつつ、その「現前性」を隠蔽・抑圧することで「キャラクター」が成立し、そのことによって「人間」の「成長」という主題が描かれるようになる、とする議論は、柄谷行人の『日本近代文学の起源』に収められた「児童の発見」における、「子供/大人」の分割が「成長」と「思春期(青年期)」という「問題」を生み出すのだという議論と、重ね合わせて読むことができる。この本の議論の射程は、児童文学・文化論にまで、伸びうるものなのだ。
(『研究誌 別冊子どもの文化』第8号、2006年7月)