宮本大人のミヤモメモ(続)

漫画史研究者の日常雑記。はてなダイアリーのサービス停止に伴いこちらに移転。はてなダイアリーでのエントリもそのまま残っています。

竹内一郎サントリー学芸賞受賞問題の〈起源〉

 竹内一郎氏が『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』でサントリー学芸賞を受賞した件について、緊急声明的に問題提起を行なったところ、予想以上に大きな反響をいただき、また、多くの有力な援護射撃をいただくことができ、心強く感じました。マンガ論の蓄積が今、どの程度の地力を持ちえているのかを確認する機会を提供してくれたという点では、竹内氏とサントリー学芸賞の選考委員諸氏にも、お礼を言うべきなのかもしれません。
 さて、この件がどのような意味で「問題」なのかについては、すでにさまざまな形で上に触れた有力な援護射撃の中で指摘されていますが、今一度、私なりにまとめておきたいと思います。
 まず、大きく分けて、二つの問題があります。

 ①この著書そのものの質の問題。
 ②この著書がサントリー学芸賞を受賞してしまったことの問題。

 ①については、すでにこの著書が刊行された時点で、「漫棚通信」、「紙屋研究所」、「白拍子なんとなく夜話」などにおいて、様々な批判がなされているほか、今回の受賞後の反応の中でも、「ハナログ」や「真面目なふざけ、適度な過剰」において新たな論点も出されていますので、おおよそこの本がどのような問題点を持っているのかはどなたにもお分かりいただけるようになっているかと思います。


 次に②についてですが、これについては、私自身が三浦雅士氏の選評を槍玉にあげたこともあってか、さしあたりサントリー学芸賞、または三浦氏個人に対するバッシングが先行する形になっているように思います。
 しかしながら、この問題は私の前回のエントリで補足的に触れたように、かなり大きな構造的な問題の一局面にすぎません。すなわち、この著書がサントリー学芸賞を受賞してしまった要因をさかのぼっていくと、この著作が講談社選書メチエの一冊として、すなわち「学芸賞」の対象となるような、ある程度一般向けに平易に書かれた学術書の一種という体裁で、出版されたことがまずあり、さらに、この著作が講談社選書メチエの一冊として出版されてしまったのは、この著作がベストセラー『人は見た目が9割』の著者によるものであり、なおかつ九州大学大学院で博士号を得た学位論文だったからであり、この著作が九州大学大学院に博士論文として提出されたのは、同大学院の故・日下翠教授が竹内氏にその執筆を促し、指導を行なったからである、と、少なくとも大きく分けて3つの局面で、ことごとくこの著作を正当にチェックすることができなかったということが見えてきます。
 さらにまた、旧帝国大学の大学院が、なぜこのようなレベルの論文に博士号を授与してしまったのか、を考えると、その背景には、国立大学の独立行政法人化に見られるような、ここ最近の文部省/文部科学省の大学行政の問題があると考えられます。この点について、大学教員2年生の私は、あまり多くを語ることができませんが、私が大学院博士課程在籍中からすでに、従来あまり大学院博士課程の最後の仕上げとして博士論文を書く、という習慣のなかった人文社会科学系大学院にも、博士論文を書かせよ、というプレッシャーが文部省/文部科学省からかかっているという話はよく聞きました。博士を何人出しているかで如実に研究費の配分が変わってくるなどという話を聞いたこともあります。
 すなわち、おそらく、ですが、竹内氏に博士号を出してしまった九州大学大学院比較社会文化研究院には、少しでも多くの博士号を出して、大学院としての存在感と機能ぶりをアピールしたいという雰囲気が底流としてあった可能性が高いわけです。実際、同研究院は、すでに数年前から日下翠氏を中心として、マンガの研究がこの大学院でできることを一つの目玉として対外的にアピールしています(http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/pamphlet/)。その象徴として、マンガ原作者として知名度も高い竹内氏に博士号を取らせたい、という思惑が日下氏にあったという推測は十分可能でしょう。
 こうした背景の中で、おそらく極めて拙速な指導が日下氏によって行なわれ、ちょうど論文提出直前の時期に、日下氏が病に倒れ指導が不可能になったため、致し方なく、「あとがき」でも触れられているように、およそ畑違いの文化人類学者である清水展氏がある程度フォローをしたものの、日下氏の指導によってほぼ完成していた論文に大きく踏み込むことはできず、そのまま提出となり、当の指導教官である日下氏が審査に関われない状況の中で、これまたマンガ研究の文脈にあまり通じていない審査委員のみによって、審査が行なわれてしまったということだと思われます。
 要するに、この問題は、今日の大学行政のひずみの産物が、サブカルチャー研究のアカデミズムへの浸透の過渡期において、過渡期であるがゆえにあちこちに生じている評価軸のズレ・落差の隙間を潜り抜けることで、起こったということができるでしょう。
 したがって、これは、本当に、今、あえて従来の人文社会科学の枠を越えて、新たな対象を扱おうとしている大学であれば、どこで起こってもおかしくない問題だと言えるのであり、やはり、「責任者出て来い」と言っていればいいものではない。むしろ、アカデミズムのありようを内側から変えたいと思っている人間全てが、わがこととして引き受けるべき問題であろうと思います。


 もちろん、それでもなお、この論文の審査に当たった5人の先生方(清水展氏、毛利嘉孝氏、上野俊哉氏、杉山あかし氏、阿尾安泰氏)には*1、この論文を、純粋に「論文」として、博士号の水準に達しているかを検討して欲しかったという気持ちがします。特に、日本のカルチュラル・スタディーズを代表する論客でもある毛利氏と上野氏には、この論文が、旧帝国大学に提出された、ポピュラー・カルチャーを題材にした論文であるだけに、こうした、そもそも「論文」が最低限備えているべき知的誠実性を欠いた書き物を博士論文として認めてよかったのかということをお聞きしたい気がします。もしや、今日のアカデミズムの形骸化を内側から暴き立てるカルチュラル・スタディーズ的実践だったりするのでしょうか。
 また、指導に当たった日下氏には、せめて、竹内氏を同研究院にきちんと入学させて、修士課程、博士課程とステップを踏ませていただきたかったという思いを禁じえません。
 ここで、おや?と思われた方もおられると思いますので、補足しておきます。
 竹内氏はこの著作で博士の学位を得ていますが、これは九大の大学院博士課程を修了したということを意味しません。博士の学位を得るには二つの道があり、一つは大学院博士課程に一定期間在籍し必要な単位を修得した上で、博士論文を提出し、審査に合格することで授与されるもので、一般に「課程博士」と言われます。もう一つは、過去に大学院に在籍したことがあるか否かを問わず、大学が「博士の学位を授与された者と同等以上の学力があると認める者」に対し授与されるもので、提出した論文だけで審査が行なわれるため、一般に「論文博士」と言われます。竹内氏はこの論文博士に当たります。
 竹内氏の最終学歴は横浜国立大学卒業ですから、博士課程どころか修士課程に入学することすらしていません。したがって修士論文もお書きになっておらず、通常大学院で行なわれる教育も一切受けておられないわけです。であるならば、せめて、学会発表や学会誌への投稿を経験させるのが指導教官としての責任だったと思うのですが、日下氏はそれもなさっていない。これはやはり、指導のあり方としてかなり問題があったと言わざるを得ません。「真面目なふざけ、適度な過剰」の別のエントリで率直に表明されているように(http://d.hatena.ne.jp/K416/20061109/1163072076http://d.hatena.ne.jp/K416/20061109/1163081275)、同じ大学院の博士課程に在籍し、厳しいプレッシャーの中で一生懸命研鑽を積んでいる院生たちが、色眼鏡で見られるようになりかねないことを考えれば、なおのこと、竹内氏に対する指導は厳格なものであるべきだったと思います。


 それからもう一つ、この博士論文としての指導と審査の過程でチェックできなかったのかなと思う疑問点があります。本書の「あとがき」で触れられている「助手」の存在です。実を言うと、この本を読んでいて、一番驚かされたのが、この本の本当に最後に出てくるこの「助手」への言及でした。そこで竹内氏は、「美術専攻の大学院生である」という「助手」の実名を挙げ、「資料のファイリング、図版の整理などを根気強く手伝ってくれた」ことと、「時に鋭い指摘をし、私に気付きを与えてくれた」ことに謝辞を述べています。
 私は、修士入学時から数えればすでに10年以上、大学という世界にいますが、人文社会科学系の博士論文の執筆に「助手」を使う、というようなケースは聞いたことがありません。そもそも課程博士の場合、博士論文は大学院生が研究者として一人前になった証として書くわけですから、その過程で同じ大学院生を「助手」として使うなど、考えられない話です。論文博士だとその辺違ってくるのでしょうか。だとしても、「資料のファイリング」という単純で機械的と考えられる作業だけでなく、少なくともその図版の分類法を著者と同程度に知悉していなければできないのではないかと思われる「図版の整理」をも行い、さらに「時に鋭い指摘をし」、「気付きを与えてくれた」となれば、場合によっては、通常社会科学系の論文などでは共著者としてクレジットされるレベルの貢献をしているのではないか、という疑問が生まれます。
 以前書きましたが、私は、この本の元になった博士論文を国会図書館の関西館で閲覧しています。原論文には、あとがきや謝辞の類は含まれておらず、当然この「助手」への言及もありません。つまり、審査に当たられた先生方はこの「助手」の存在を知らなかった可能性もあります。「助手」の貢献の度合いにもよっては、もしその存在があらかじめ明らかになっていれば審査の結果は変わってきていたかも知れません。
 これは、少し書くのを躊躇するのですが、なぜこのことに引っかかるのかというと、実は、私ミヤモト自身が、以前、竹内氏からこの「助手」をやらないかという依頼を受けたことがあるからなのです。手元にあるメールを見ると、日本マンガ学会が発足した翌年、2002年の6月に、竹内氏から「漫画表現論」に関する、「論文」を準備中なのだが、テーマが大きいため資料の整理が追いつかないので、研究助手として働く、またはそうしたことができる院生を紹介してくれないかという依頼を受けています。何度かメールや電話、直接会っての会話などを重ねるうち、氏の言う論文が博士論文であることや、氏の依頼している仕事が、氏が列挙した表現技法を、手塚全集の中から拾い出すという作業であることが分かり、それを助手にやらせてしまったら、それはあなた一人の博士論文にならないはずですが、と申し上げました。
 氏はその時点で夏目房之介という名前もご存知ないようでしたし、すでにその4年前に「マンガと乗り物」を発表し、「マンガの居場所」の連載も4年目に入っていた私のことなども当然全くご存知なく、単にできたばかりのマンガ学会の名簿に東大の大学院生を見つけたという理由で私にメールをして来られたのでした。
 その程度の勉強で大学院にも入らず手筭治虫の研究で博士号を取ろうとしていることや、作業内容の重さから言っても、すでに自分の博士論文に取りかかっていた私には、到底協力できないと思い、ご依頼はお断りしたのですが、今回「あとがき」を見て、これはもしや、結局私にやらせようとしていたことをこの院生にやらせたのではないだろうかと思ったのでした。もちろん、どこまでが許容範囲なのかは微妙な問題かもしれませんから、その「助手」さんに迷惑がかかってもよくないので、これ以上追及はしませんが、指導のあり方以外にも、論文執筆の過程に、問題が含まれていた可能性は指摘しておきたいと思います。


 以上を要するに、竹内一郎サントリー学芸賞受賞問題の〈起源〉は一つではなく、むしろいくつかの条件が重なり合う中で、この問題が形成されてきたことが分かります。竹内氏一人が悪いわけでもなく、日下氏一人が悪いわけでもなく、もちろん、博士論文の審査に当たった審査委員や、この論文をメチエに入れてしまった講談社の編集者や、この本に賞を出してしまった選考委員のうちの誰かだけを、吊るし上げればいいというものでもないわけです。ただ、願わくば、そのうちの誰か一人でも、「これは違うんじゃないか?」という声を上げていただきたかった、ということであり、それがかなわなかった以上、この本が出た時点で、私や他のマンガ研究者が、もっと大きく声を上げて批判しておくべきだったと後悔している、ということです。


 次回のエントリでは今回、本来なら先にやっておくべき、この本の元になった博士論文自体も、審査を通過すべき水準になかったのではないかと思われることを確認し、その水準が、指導教官であった日下翠氏のマンガ論の著書の水準に規定されてしまっていることに触れて、この問題に関する私の発言を終わりにしたいと思います。

*1:この5名の審査委員の顔ぶれについては、すでにこの博士論文の公開審査が行なわれたと聞いた際、九大の院生諸君に尋ねて知っていました。その時点ではこの博士論文が本になり、ここまで高い評価を得ることになるとは思っていませんでしたから、ことさらに言及することは避けてきたのですが、今回、審査のあり方にも関心が持たれる状況になってきたため(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20061113/1163349697http://d.hatena.ne.jp/hspstcl/20061112#1163298892)、意を決して名前を挙げさせていただきました。